ボローニャの都市計画では、「一緒に来い」と言われてプレゼンに同行し、向こうとのやりとりのなかで必要になった部分をコンピュータで修正しました。当時ボローニャにはコンピュータがなく、ミラノまで200キロの距離を車でぶっ飛ばして作業したのを覚えています。
丹下先生はデザインだけでなく理系も強く、技術的、構造的に「できる」と自身が確信しているものを要求していたのです。
丹下先生のイメージに対する執念、イメージを完璧に具体化することへの執念は凄まじかった。
私も含め、丹下研究室の弟子たちは教育、指導は一切受けませんでした。しかし、1000本ノックのように鍛え上げられたのです。
※週刊ポスト2021年7月2日号