中島みゆきが作詞・作曲した『ルージュ』は、のちに中島本人がセルフカバーしてロングヒットに (写真/石田伸也さん提供)
「変革」新たなジャンルへの挑戦
そこから郷さんは、ちあきの歌いたい歌を歌わせることに心血を注ぐようになり、彼女もそれに応え、あらゆるジャンルの歌を歌うようになった。1977年には、当時25才の中島みゆき(69才)が作詞・作曲した『ルージュ』や、当時26才の河島英五さん(享年48)が手掛けた『あまぐも』(1978年)の楽曲提供を受け、ニューミュージックの分野にも進出するようになる。
この頃、何より世間にインパクトを残したのが、1977年9月に発売した『夜へ急ぐ人』だ。この曲で彼女は『紅白』に出場したが、その姿に多くの人が度肝を抜かれた。真っ黒なドレスに赤い腰ひもといういで立ち。にらみつけるような表情。ある種、“狂気”に満ちたパフォーマンスは、5年前に『喝采』で見せた情感とはまったく違っていた。
なかでも、サビで手招きをしながら歌う鬼気迫る歌声に、そのとき司会を務めていたNHKの山川静夫アナウンサー(88才)は、「なんとも気持ちの悪い歌」と台本にはない感想を思わず口にしたのがいまでも、語り草となっている。同曲の作詞・作曲を手掛けたのは、当時、さほど有名ではなかったシンガーソングライターの友川かずき(現・友川カズキ、71才)だった。
当時、人気だった深夜番組『11PM』(日本テレビ系)で、友川が『生きてるって言ってみろ』という曲を歌っている姿に心を揺さぶられたちあきは、その直後に楽曲提供を依頼したという。友川本人は当時をこう振り返る。
「『11PM』は大阪で収録していたので、私は番組出演後、大阪に1泊し、翌朝、東京に戻りました。そこに事務所のかたから電話が来たのです。すぐに事務所に来てほしい、と私のアパートに迎えの車を回してくださり、行ってみると、ちあきさんと郷さんがいて、書き下ろしの楽曲提供を依頼されたのです」(友川・以下同)
他人に曲を提供したことがなかった友川は、引き受けるべきかどうか迷い、当時、東京・新宿にあったライブハウス『ルイード』で行われたちあきのライブを見に行ったという。
「衝撃でしたね。ライブでのちあきさんは、ジャニス・ジョプリンの曲を、滂沱の涙を流しながら崩れ落ちるように歌っていたんです。『喝采』や『夜間飛行』などで、ちあきさんの歌は知っていたつもりでしたが、まさかジャニスの歌を歌うとは……驚きました」