しかし、戦闘に水軍の利用が常態化していたとなれば、これまでの理解は大幅な変更を迫られることになる。具体的には、「本能寺の変」の報に接した秀吉が、備中高松城から姫路城まで135キロの道のりを、驚くべき短時日で大軍を移動させた「中国大返し」である。
大軍の移動もしくは大量の武具の運搬に海路が利用された可能性については、NHK総合で6月9日放送の『歴史探偵』でも特集され検討されていた。そもそもこの説は船舶設計のプロである播田安弘氏が2020年刊行の著書『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』(講談社ブルーバックス)の中で開陳したものだった。
織田軍団も水軍を有してはいたが、瀬戸内海に割拠する海賊衆はよそ者の参入を許さず、織田軍団の部将である秀吉が海路を有効活用しようとすれば、地元の海賊を味方にするしかなかった。
瀬戸内水軍と言えば「村上水軍」が有名だが、毛利氏に味方した彼らの勢力範囲は芸予諸島を中心とする瀬戸内海西部に限られる。備前国沖合を含めた瀬戸内海東部には、村上水軍より小規模な水軍がいくつも割拠存在していた。秀吉が水軍を動員できたとすれば、彼らを味方にしたはずで、それを実証するためにも、今後は東瀬戸内水軍に関する古文書のさらなる発掘と精査が不可欠である。
秀吉が天下人になるための工作資金、出所判明か?
「中国大返し」は明智光秀の意表を突き、光秀との「山崎の戦い」に勝利した秀吉は、信長の後継者の座に大きく近づいた。その座を確実に手にするためには、織田家内外への根回しと敵対する相手との武力行使が避けられないが、従来、そのための資金をどこから、どうやって調達したかが謎のままだった。
2021年、そのベールに風穴を開けたのが、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授である。愛媛県松山市が40年余り前に購入した古文書を村井准教授が調査したところ、「本能寺の変」から3か月後、秀吉が信長を弔う菩提寺の建立を名目に、銀1000枚の提供を受けたとの記述を発見。村井准教授らによれば、寄進者は有力な商人か寺院と推測され、銀1000枚は現在の金額にして数億?数十億円に相当するという。
「信長の供養のため」とすれば、寄進も集めやすかったであろうことは想像に難くない。集まった資金のうち、何割が菩提寺の建立と葬儀に費やされ、何割が武具の整備や裏工作に費やされたのだろうか。いずれにしても、秀吉が、柴田勝家や丹羽長秀ら織田家中のどのライバルよりも優位に立てた理由が、資金集めの成功にあったことは間違いなさそうだ。その意味でも、今回発見された古文書の価値はとてつもなく大きいと言える。