おおもとの証言者は明智光秀の重臣、斎藤利三の三男・利宗。当時16歳の利宗は父・利三に従い、本能寺襲撃に加わった。その利宗によれば、本能寺を襲撃したのは父・斎藤利三率いる先発隊2000余騎で、光秀は本能寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたという。これが事実であれば、ドラマや映画で描かれてきた、光秀自身が全軍を率いて本能寺を包囲したとする従来説は修正を迫られることになる。
事の真偽を専門家はどう見ているか。前掲の記事では日本中世史が専門で、東京大学史料編纂所の本郷和人教授の「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」との見解を伝えている。
一方、証言者である斎藤利宗自身が書き残したものではない上に、利宗の甥にあたる加賀藩士の井上清左衛門を介して伝えられた内容であること、「本能寺の変」が起きてから筆写されるまでに87年もの歳月を経ていることなどから、信憑性に疑問を投げかける研究者もいる。
秀吉の「中国大返し」は海路を使った?
「本能寺の変」が起きた時、同じく信長の配下であった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、備中国(現在の岡山県西部)で城攻めの最中だった。
この時代、中国地方で最大の勢力を誇ったのは安芸国(現在の広島県西部)を本拠地とした大名・毛利氏である。信長にその攻略を命じられた秀吉は、毛利氏に味方する勢力の多い備前国(現在の岡山県南東部)と備中国を舞台に、硬軟併用の戦術を取っていた。
しかし、「秀吉の中国攻め」の一つに数えられる備前国常山城の獲得に関しては確たる証拠がなく、無血開城だったのか攻城戦が実施されたのか、不明のままだった。それが2021年夏、滋賀県長浜市で、常山城攻めに際しての詳細な配置を記した文書「羽柴秀吉備前国児島攻め備」が発見され、戦闘回避がならなかったことが明らかとなった。
だが、常山城攻めにおける戦闘の事実の発覚よりも注目を集めたのは、「はまて(浜手)の衆」という、水軍の配備をうかがわせる記述だった。
中国地方の南に広がる瀬戸内海を作戦上利用するのは自然な発想だが、これまで織田軍団が瀬戸内海で水軍を利用した記録は見つかっていなかった。秀吉が任された中国戦線での行動も、要人の移動や補給を除けば、陸路に終始していたと考えられてきた。