いくつになっても美しい宮沢りえの艶やかなドレス姿(写真/共同通信社)
舞台で本領を発揮
現在放送中のドラマ『真犯人フラグ』でも、宮沢の“技術”は健在だ。失踪した妻と子どもたちを取り戻すために奔走する男を描いた同作で、宮沢は彼の妻という重要な役どころを演じている。いかにも良妻賢母といった人物で、周囲からも評判の良い“妻像”をオーバーアクトで体現し、その人の良さを露骨なまでに表現。登場人物の誰もが怪しく見える本作において、彼女もまた怪しく映り、視聴者を混乱させることに見事に成功している。
ただ、オーバーアクトとはいえ、実際に観客を前にして見せる舞台上での演技はまた別物。演劇作品で宮沢を観たことがある人ならば、いかに彼女が丁寧な“演じ分け”を実践しているのかが分かるだろう。宮沢は、各作品ごとにフレキシブルに演じ方を変え、作品ごとにフィットした俳優になれるのだ。
そんな宮沢が本領を発揮する場は、やはり舞台ではないかと思う。特にアングラ演劇はその最たるものだろう。宮沢が唐作品に参加したのは『泥人魚』が4作目。座長を務める者としてそれ相応の経験を積んできたからだろうか、この作品や、アングラ演劇らしい演出法への適応具合には抜きん出たものがあった。
例えば彼女の発する声。筆者は2階席で観劇していたため、俳優たちとはかなりの距離があった。第一線で活躍するプレイヤーが集まっているのだから、声が聞こえづらいなどということはもちろんない。しかし、俳優によって聞き取りやすさに差があるのは事実だ。これは声が大きければ良いというものではなく、的確に観客に届けるためのコントロールが必要なのだろう。手練れの俳優陣の中でも宮沢の声が最も鋭く、突き刺さるように届いてきた。遠くにいるはずなのに、まるで目の前に彼女の姿が迫ってくるような力を感じた。
極端なことを言うと、アングラ演劇に必要なのは、物語の内容以上に熱量だと個人的には思う。熱に圧倒されているうちに、内容は自然と後から入ってくる。しかしその熱が俳優個人の“内向き”のものであっては、観客を置き去りにしてしまう。この点、宮沢は常に“外向き”なのだ。演じることに俯瞰的である証だろう。
一昨年の2020年には、出演予定だった舞台『桜の園』と『アンナ・カレーニナ』が公演中止。年に1本以上のペースで演劇作品への参加を続けてきた彼女は、本作で2年ぶりに舞台に立った。コロナ禍で2本の公演が中止になりながらも、こうして舞台に立つことをまた選んだ彼女は、生粋の演劇人なのではないだろうか。
【折田侑駿】
文筆家。1990年生まれ。映画や演劇、俳優、文学、服飾、酒場など幅広くカバーし、映画の劇場パンフレットに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。