逮捕されたときの田中角栄氏(写真/共同通信社)
当時、東京地検特捜部で吉永を間近で見ていた弁護士の堀田力氏は「吉永さんは特捜部の中でもエリート中のエリートだった」と語る。
「捜査の指揮官としては最高の力量を持っていて、ロッキード事件を総括して指揮する能力では右に出る人はいない傑出した指揮官でした。事件を解明しなければという責任感が強く、どんなに厳しい問題でも投げないし引かない。大胆ですが証拠集めには慎重で、“石橋を叩いて渡る”を地で行く人だった。常に先を読む厳格な検事でした」
吉永には独自のルールがあった。
「検事同士の打ち合わせは厳禁でした。間違った自白に合わせて共犯者の供述を取ると判決が無罪になってしまうかもしれない。常にそういったリスクヘッジもして厳正に捜査を進めていました」(堀田氏)
周囲は吉永に一目置き、検察内で「特捜部の事件はあいつに任せておけば安心」と言われるまでになった。
そんな吉永のもとに精鋭たちが集った。
実力主義の叩き上げ集団
ロッキード事件前夜、特捜部は暗黒の時代を迎えていた。
「特捜部は1968年に日本通運が起こした汚職事件で社会党の議員を逮捕しましたが、そこから8年にわたって国会議員の疑獄事件を扱わない『空白の時代』が続きました。1974年には田中角栄の金脈問題が浮上しましたが、特捜部は田中を追い詰められなかった。吉永さんは忸怩たる思いを抱えていたと思います」(高尾氏)
そんな最中の1976年2月、前述のようにアメリカの公聴会で爆弾証言が飛び出した。
「空白の8年の後にアメリカから飛び込んできた情報は、航空機をめぐる一大疑獄となる可能性があり、吉永さんは特捜部の存在意義をかけて捜査に臨みました。しかしロッキード事件は容疑の多くが時効間近で、アメリカでは日本の捜査権限が及ばないなど、捜査を進めるうえで様々な壁があった」(同前)
苦難の捜査において獅子奮迅の活躍をしたのが「吉永軍団」の面々だ。高尾氏が続ける。
「今でこそ東京地検特捜部はエリートの集まりというイメージですが、当時は難解な事件を泥臭く捜査する職人集団で、学歴など関係なく完全に実力主義の部署でした」
その特捜部で精鋭たちを束ねるのが吉永だった。
「様々な個性を持つ部下がそれぞれの長所を最大限発揮できるよう、30人ほどのチームを適材適所で配置しました。集ったのは吉永さんの厳しい要求に応えられるタフな面々ばかり。彼らが優秀だったからこそ、前首相の逮捕・起訴という偉業を成し遂げられた。
吉永さんは優秀な部下が集めてきた材料をもとに頭の中で緻密な計算をし、法律を駆使して捜査の壁を突破していったのです」(高尾氏)
精鋭揃いの中でもキーマンとなったのが事件前まで横浜地検にいた安保憲治検事だ。
「被疑者を落とす能力を見込んだ吉永さんが自ら自宅に足を運んで説得し、チームに招集しました。安保さんは“ボス”の期待に応え、事件の重要人物である丸紅の檜山廣社長から見事に自供を引き出しています」(同前)