桂は見事に説得に成功したというわけだが、実際にはどうやって説得したのか大いに興味をそそられるが、その言葉の具体的内容は記録として残されていない。しかし、どのような状況でその説得が行なわれたのかはわかる。ほかならぬ藤澤自身が朝日に語っているからだ。
大阪の父に会った後に伊勢神宮に行き、名古屋の熱田神宮に寄ってから列車で上京、新橋駅に到着した藤澤はどうやら桂の使者の迎えを受け、酒食のもてなしを受けたようなのである。友人たちも新橋駅に出向いたが藤澤と会うことはできず、結局上京した二月十一日の夜遅くなって藤澤の親友のところへ、藤澤自身から「迎えにきてくれ」と連絡がきた。この親友(名は記されていない)が朝日の記者に語ったところによると、神楽坂の料理屋『すゑよし』で待っていた藤澤は、「五体萎えたるがごとく乱酔し口中よりは盛に異臭ある酒気を吐き其の語る処もしどろに」次のように言ったという。
〈「俺は今日桂から大歓迎を受けたよ、桂が俺を擁して接吻までした、偉い御馳走になった、俺は桂の車で回って此処へ来た、何アに俺は既う明日天の岩戸に閉じ籠るのだから」〉
なんと、現職の総理大臣桂太郎が藤澤を抱擁して接吻(キス)までしたというのである。泥酔していた男の発言ではあるが、私はたしかにそういう事実があったと考える。なにしろ桂は「ニコポン」と異名を取った男である。その「ニコポン総理」がぜひとも実現したいと考えていた質問書の撤回を藤澤が承諾したのだから、桂がそれぐらいのことをしても不思議は無い。
しかし、この親友は「明日天の岩戸に閉じ籠る(国会には出ないで身を隠す、という意味か?)」と口にした藤澤の状態が単なる泥酔状態では無く「半狂乱」で、その言葉も「深き決意より発せる自暴自棄の語気」があることに驚いている。そして、藤澤が肌身離さず持っていた質問書をいつの間にか紛失したことについて、次のように語っていたと証言している(カッコ内は筆者註)。
〈深く酔うて何事も覚知せざる間に何時何処に失いしや思い当らずと(藤澤は)言いたるが、(私は)之とても悪く想像せば氏が乱酔せるを見済して何者かが造作もなく奪取せるものと推し得べし、かかる次第なれば昨日提出せる辞表の如きも先ず白紙に氏の署名だけを記さしめ他の本文は後に他人の手にて認めしものにはあらずや、前夜来の氏の彼の様にては迚も自ら認めしとは思われず〉
現代語訳するまでも無いと思うが、要するにこの藤澤の親友は、藤澤を泥酔させた人間が懐中の質問書を奪ったばかりか白紙に署名させ、後から本文を足して辞表を偽造したのではないかと疑っているわけだ。しかし、それならなぜ藤澤は抗議しなかったのかという疑問が湧くが、それに対して朝日はこの記事の別のところで「同夜氏が尚すゑよしにある時」に、「座に出でし或者(その場にいた某者)」の、「氏が千円束の紙幣を所持するを瞥見(ちらりと見た)せり」という証言を載せている。
これも私は事実だったと思う。藤澤を泥酔させてカネを無理矢理受け取らせたのではないだろうか。それなら藤澤も抗議しにくい。おそらくそのことで藤澤はストレスの塊となったようだ。質問書撤回、議員辞職からほぼ二週間後の朝日には、なんと「藤澤氏の發狂説」が掲載されている。それは次のような友人の証言である。
〈元造氏は昨日も自筆で漢文の尺牘を寄越したが『己は神だ』と言う事は十五日桂首相邸を出た時から始終口癖に言っている 何でも暴れたと見えて先日藤屋から電話で誠に困るから引取って呉れという電報が来たが、直ぐ翌日全く酒乱で、其後納まったから前の電話は取消して呉れと言って来た(中略)私が両三日前『どうやらお前も犬死になり相だ、首相は約束を実行し相もない、夫れのみならずお前が詰らなく辞職した者だから折角のお前の苦心も狂人の私言に為れて了ったらしい』と言って遣ったから或は無念の余り少し変になったかもしれぬ〉
(『東京朝日新聞』1911年〈明治44〉2月27日付朝刊)
「首相の約束」がなんだったのか、それが本当にあったのか気になるところだが、それについてはなにも記録は無い。しかし私はこれもあったと思う。口約束ならなんとでも言えるからだ。結局、藤澤元造は桂太郎に見事に手玉に取られた。そして、この一件で藤澤は歴史上「消えた」。この時から約十年生きたが、記録に残るような活動はせず、この世を去った。首相桂太郎が日露戦争の勝利と韓国併合の功で公爵にまでのし上がり、文字どおり「位人臣を極めた」のとは対照的である。