当時はカーブの握りでウエストした江夏の技術を評価する記事ばかりが目立っていたが、山際氏の『江夏の21球』が発表されて、衣笠とのエピソードにも注目が集まり、語り継がれてきたのです」(同前)
指が血に染まった「杉浦の436球」
7~9回までのロングリリーフというのも、分業制が進んだ現代のプロ野球ではなかなか見られないものとなったが、時代を遡ればさらに驚異的な記録も残る。たとえば1959年の巨人対南海の日本シリーズである。
同年は王貞治が巨人に入団し、6月には球界史上初の天覧試合が行なわれ、長嶋茂雄が劇的なサヨナラホームランを打ったシーズンだ。
セ・リーグは2年目の長嶋が打率4割台を続けるなど好調で、前半戦は2位の阪神に10.5ゲーム差をつけて折り返し、最終的に13ゲーム差をつけて優勝した。日本シリーズの対戦相手は長嶋と立教大で同期だった杉浦忠がいる南海だった。杉浦はこの年、38勝4敗という成績を残し、最多勝、勝率、防御率など全タイトルを独り占めした。ベテランスポーツジャーナリストが言う。
「それまで巨人との日本シリーズで4度の敗北を喫している南海は、前年に巨人を相手にした西鉄がエース・稲尾和久の連投で3連敗からの4連勝という奇跡を起こしたことにヒントを得たのでしょう。鶴岡一人監督は38勝の杉浦を“稲尾方式”で登板させて巨人を攻略することにした」
第1戦に先発した杉浦は、8回を3失点で抑えて勝ち投手となった。第2戦、巨人はエース・藤田元司をスライド登板させ、初回に長嶋が2ランを放つなどしてリードを奪う。ところが、“400フィート打線”と呼ばれた南海の打撃陣も奮起し、4回に逆転するとベンチは杉浦を投入。5回を3安打1失点で抑えて第2戦も勝ち投手となった。
第3戦も南海は杉浦を先発させると、巨人もエースの藤田が連投。投手戦となって藤田は8回まで投げたが、杉浦は延長10回までマウンドに上がり続けてこの試合も勝ち投手となった。長嶋は初回に強襲ヒットで打点を挙げたが、8回のチャンスには内野ゴロ、10回の最後の攻撃では内野フライに仕留められた。
日本リシーズ3勝となった杉浦は、第4戦が雨で1日順延になると、先発としてまたもマウンドに上がった。3回に先取点、7回に追加点をもらうと、杉浦は9回を106球で投げ切り完封勝利。単独で4勝0敗という日本シリーズの歴史における唯一の記録を作った。
「4試合で杉浦の投げた球は436球。奪った三振は20だった。日本一になって胴上げされた杉浦の右手中指はマメが潰れて血に染まっていたと言われているが、第4戦も杉浦を先発させたのは1955年の巨人との日本シリーズで3勝1敗から3連敗して日本一を逃がした鶴岡監督の執念の采配だった。本来、長嶋も杉浦とともに南海に入団するはずだった。杉浦はなんとも思っていなかったが、鶴岡監督はその恨みもあったと思う。1人のエースでリーグ優勝し、日本一にまでなったシーズンだった」(同前)
江夏の21球に、杉浦の436球……。今年はどの投手が、どんな快投を見せてくれるのか。