49歳当時の山頭火(1932年1月撮影。写真提供/春陽堂書店)
放哉の「咳をしても一人」に唱和した句
それから、山頭火は熊本の曹洞宗・瑞泉寺(通称・味取観音)の堂守となり、ようやく若いころにいそしんでいた句作を再開する。
当時つくられた代表句に、次のようなものがある(以下、解説は小学館新書の新刊『孤独の俳句 「山頭火と放哉」名句110選』より)。
「けふも托鉢ここもかしこも花ざかり」 山頭火
〈1925(大正14)年の句。大正10年から13年にかけて、山頭火は句をつくっていない。ほんとうのところはつくれなかったのであろう。大正10年には父が死亡。翌11年には職を辞し、12年には失業状態のまま関東大震災にぶつかったのである。[中略]熊本に帰った山頭火は大正14年、曹洞宗報恩寺の義庵和尚について修行をつんで得度した。耕畝の名を与えられた山頭火は禅僧の末席に連なり、熊本県鹿本郡植木町の瑞泉寺味取観音の堂守として赴任した。そこでやっと句ができはじめるのだ〉(金子兜太評/以下同)
しかし、山林独居の生活に耐えかねて、山頭火は放浪の旅に出る。その直前に、同時代の自由律俳人・尾崎放哉が肺結核を患った末に41歳で亡くなっていた。
旅に出てまもないころに詠まれたのが、次の句だ。
「鴉(からす)啼いてわたしも一人」 山頭火
〈1926(大正15)年の『層雲』発表句。句の前書に「放哉居士(こじ)に和す」とある。この句は、放哉の「咳をしても一人」という句に唱和したものだと思う。二人は一度も会っていないが、山頭火は三つ歳下の放哉を俳句の上では先輩と見ていた。山頭火の『行乞記(ぎょうこつき)』を読んでいると、放哉の句を下敷きにし、もじった句にしばしばぶつかる。放哉を念頭におくことが多かったのだ〉
故・金子兜太氏。山頭火の55句を選び、解説した(撮影/今井卓)