それ以来、山頭火は14年にわたって九州、中国、四国地方を中心に日本全国を放浪しながら句作を続けた。旅、自然、野宿、酒……それらを結びつけるものとして、俳句があった。
各地を転々とし続けた山頭火だったが、終焉の地・松山に向かう前の一句には「内奥の疲れのひどさ」が見てとれるという。
「酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ」 山頭火
〈1939(昭和14)年9月18日、風来居での句。前書に「自嘲一句」とある。いよいよ最後の地松山に向けての旅が始まる。前書に「──私の念願は二つ、たゞ二つある、ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ、そして他の一つはころり往生である」などと書いている。「ほんたうの自分の句を作りあげる」のが念願と言いつつ、句も文章もまったくあけすけに自虐的で荒っぽい状態になっている。酒が相当身体にこたえてきているのではないかと思う。この「自嘲一句」には、そうした山頭火の体調の傾き、内奥の疲れのひどさというものを感じるのだ〉
先人たちの墓参を終えて「ころり往生」
亡くなる約1年前の1939年10月、松山入りした山頭火は、自身も参加する俳句誌『層雲』の同人でもあった野村朱鱗洞(しゅりんどう)の墓参を果たす。朱鱗洞は24歳で夭逝(ようせい)した松山出身の天才俳人で、山頭火は同じ年の3月には、やはりずっと望んでいた信州伊那谷の俳人・井上井月(せいげつ)の墓参も実現している。さらに朱鱗洞の墓参後、小豆島まで回って、尾崎放哉(ほうさい)の墓にも参じている(2度目の墓参)。
「ほんたうの自分の句を作りあげる」という念願を持ちながら、先に逝ってしまった敬愛する俳人たちの墓をめぐる──まるで自分の死期を悟ったような旅を重ねていた山頭火だが、このときにはまだ、死を予見するような兆候はなかったようだ。