オリックス・仰木彬監督から打撃コーチの依頼
2度目は2005年、近鉄と合併したオリックスの監督に就任した仰木彬から長打力のある打者を育ててほしいという要望で打撃コーチの依頼があったという。断った理由は〈僕が個人に教えるのは難しいんちゃうかと。僕ひとりであればいくらでも努力できますけど、それを押し付けると選手がギブアップしてしまうでしょう。だから指導者には向いてないんでしょうね〉(『確執と信念 スジを通した男たち』)と話している。
「門田さんが指導者への意欲を見せていた時期もありますし、この発言がどこまで本音かはわかりません。70歳を超えて現実的に指導者への道がなくなったことで、『向いていない』と自分を納得させるように言ったのかもしれません。2005年末に脳梗塞を患っていますし、オリックスからオファーがあった時も体調が良くなかったのでしょう。
仰木さんは肺がんを抱えたまま監督に就任し、2005年12月に亡くなりましたが、門田さんを指導者として球界に復帰させるべきだと考えていたのかもしれない。仰木さんは個性派集団の近鉄をまとめてきた。それに、野茂英雄やイチローという特徴のある選手の個性を尊重して、大成させた人だった。門田さんともうまくやれたでしょう」
2006年1月に門田は野球殿堂入り。久々に公の前に姿を現したが、会見には右足をひきずりながら登場していた。当時57歳だったが、指導者としての体力は既になかった。
「もしオリックスのコーチに就任していたら、2006年に“門田監督”が誕生したかもしれません。清原和博、中村紀洋を補強した年ですから、門田監督の元で2人がプレーしていたらと考えるとワクワクしますね。もちろん衝突した可能性もありますが、3人とも我が道を行くタイプのホームランバッターで、ケガと戦ってきた選手ということもあり、どこか精神的に繋がる面もあったのでは。門田さんは野村さんのもとで配球などのキャッチャー心理も教わっていたし、清原さんにそのような指導をしていれば、どうなったか……。一度、門田監督を見てみたかったですね」
現役時代から独自の哲学を確立し、不惑の40歳で2冠王を獲得して44歳まで現役を続けた門田。もしプロ野球の指導者になっていて、その卓越した打撃理論を継承する選手がいたらどうなっていたか──。“門田監督”が幻に終わったことを、残念に思うファンは少なくないだろう。