とはいえ、マスコミだけが“弱腰”だと批判されるのも、おかしい側面はあります。この八鹿高校事件について、大阪地裁は、起訴された2人の解放同盟員に対して無罪判決を下し、差別に対する糾弾は「その手段、方法が相当と認められる程度をこえないものである限り、社会的に認められて然るべきものと考える」として、「糾弾権の正当性」を認めました。それが一転、大阪高裁は一審判決を棄却し、有罪判決を下します。判決文では「被告人らの行為の動機、目的の正当性を十分考慮に入れても、その手段・方法が法的秩序に照らし、相当と認められる程度を明らかに超えたもの」とされ、拉致監禁して集団で糾弾する行為の違法性が確認されたのです。
「法の番人」の裁判所でさえ、そのように「糾弾闘争」をどのように評価するかは当時、揺れていたわけです。マスメディアがその事件をどのように捉え、報じていいのか迷うのも、無理もない社会的な雰囲気もありました。その延長として、「同和問題は報じにくい」という空気感が、メディアの間にも醸成されていったのです。
どのような社会問題も、メディアがそれを掘り起こし、世間に投げかけないと、世間の意識は変わっていきません。同和問題は、あらゆる差別を内包して、「人権運動」「人権問題」と発展していきます。しかし、いちばん肝心の同和問題についてマスコミが及び腰だったから、同和差別解消がなかなか世間に浸透しないばかりか、女性問題やLGBT問題、在日外国人問題などの普遍的な人権問題の解消も進みづらくなっているのではないかと感じています。
たしかに差別問題を報じることは、「差別解消」が絶対的に正しいことである以上、表現などは一寸も間違ってはいけないと気を遣うものです。それでも、間違いのない表現の精査を続ける努力をし、同和問題・人権問題にかんすることも、見てみないフリをせず、世間に発信し、伝えていかないといけないと考えています。「放っておけば自然に差別問題が解消される」ということはないと思っています。
そういう意味で、今回は『同和のドン』という著作を出すにあたり、編集に当たってくださった方々の細やかな確認や指摘、出版にこぎつかせてくれた方々の労力には、頭が下がる思いです。