JALの広報課長から呼び出されて……
入社2年を目前にしたこの時期、田中敬子の担当するフライトは国際便が大半だった。敬子が海外から帰国して、横浜の自宅に帰ろうとすると「これから本社に向かって下さい。広報課がお呼びです」と言い渡された。
「何だろう」と思いながら、敬子は銀座にあった日航の本社に向かった。広報室に入ると、待ち構えていた広報課長が単刀直入に言った。
「力道山があなたにお会いしたいと言っています。私も同席するから、我が社の広報活動の一環と思って、会ってくれませんか」
敬子は驚いた。まさか、会社にまで手を回して来るとは思いもしなかった。美濃部の証言からひく。
「局面を打開するには、第三者の協力が必要だった。私は、日航の広報室のI氏に事情を打ち明けて、協力を頼んだ。Iさんは『まじめな縁談なのだから、会うだけは会ってみるように、田中君にすすめてみましょう』といってくれた」(同)
敬子はこう回想する。
「上司からそう言われたら承服するしかないんですけど、その前から美濃部さんは私のフライトの時間をどうやら掴んでいたみたい。社員の中に情報を漏らしていた人がいて、本当は規則違反なんだけど……。そこまでして、私を引っ張り出そうとしたんです」
「次のフライトはいつですか?」
今と昔でどれほどの差があるか判りかねるが、いかに週刊誌の記者が、特ダネを獲るために骨身を削っていたか判然とする。とにもかくにも、美濃部脩の執念が実って、力道山と田中敬子の顔合わせが正式に決まった。
美濃部の記録によると「1962年11月23日・赤坂のホテルニュージャパン」とある。この地下にあるのが「ニューラテン・クォーター」というのも奇妙な符合に思えなくもない。
「会見は、敬子さんの希望で、私とリキさんがいるところへ、私の知り合いの敬子さんが偶然通りかかったというスタイルを取ることにした」(同)と美濃部は言うが、田中敬子は「いえ、広報課長も一緒でしたし、むしろ、遅れて来たのは主人の方だったもの」と首を傾げる。
会話の内容については、美濃部の証言と、敬子の記憶にさほど隔たりはなく、「空の上は人間を孤独にするでしょう。ぼくはあの気分が好きでね……」(同)と力道山が言えば「空手チョップって、手が痛いでしょうね」(同)と敬子も訊いた。
「生まれて初めての仲人役は、六分通り成功した」(同)と美濃部が述懐する通り、対面はつつがなく終わった。
別れ際、力道山が尋ねた。
「次のフライトはいつですか?」