「ピンク・レディー」が誕生したのは、『スター誕生!』からわずか半年後の1976年8月、『ペッパー警部』で鮮烈なデビューを飾った。ガニ股で踊る仰天の振り付けは、「斬新」から「下品」まで、振り幅いっぱいの反響を呼んだ。レコード売り上げも60万枚の大ヒットになり、続く『S・O・S』(1976年11月)、『カルメン’77』(1977年3月)ではオリコン1位に輝き、瞬く間にトップアイドルの階段を駆け上がっていった。
「デビュー前から常時“仮眠状態”の過密なスケジュールでした(笑)。夜が明けないうちからラジオ番組の収録や雑誌などの取材、昼間から深夜までテレビ番組の出演や収録、テレビの収録が終わる深夜0時を回ったころからレコーディングやCM撮影。その日の仕事が終わると翌日の仕事の資料をドサッと渡されて、自宅に帰っても1時間もすれば迎えの車が来るという毎日でした。あの頃どうやって仕事をこなしていたのか、本当に記憶がないんです」(ミイ)
露出の多いド派手な衣装がトレードマーク。ショーガールやバニーガールを連想させる出で立ちは、当初こそ大人の男性目線を意識したものだったが、『渚のシンドバッド』(1977年6月)が100万枚の大ヒットになると、小学生がこぞって踊りをマネしはじめ、瞬く間に社会現象化した。
「忙しくて頭が回らず、移動はマネージャーのかかとをじっと見つめながら、迷わないように黙って付いていく状態でした。でも、現場に到着して曲がはじまると、体が自然に動きました。まるで急にスイッチが入ったように歌って、踊って。ステージ上でパフォーマンスをしている間は、どんなに疲れていても『生きてる!』と実感できました。テレビでの仕事とは違い、コンサートでは来てくれたお客さんの反応がダイレクトに伝わってきます。みなさんの喜んでいる顔を見て、私たちもとても嬉しかった」(ミイ)
日本中を席巻したピンク・レディーブームのなか、1977年の年末には『ウォンテッド(指名手配)』でNHK紅白歌合戦初出場。翌1978年には山口百恵や沢田研二などを抑え、『UFO』で日本レコード大賞を受賞した。『UFO』はピンク・レディー最大のヒット曲となり、売り上げ155万枚を記録した。
「レコード大賞の席で『ピンクレディー』の名が呼ばれた時、私は放心状態でした。デビューに携わってくれたみなさんや、応援してくださった方々の顔が走馬灯のように頭に浮かんできて、腰が抜けたようになって立ち上がれませんでした。ちょうど後ろの席に座っていた阿久悠先生に、『ケイ、名前を呼ばれたんだから立ちなさい』と肩を揺すられて、ようやく立ち上がることができました。『これでやっと、これまで育ててもらった恩返しができた』と、重たい肩の荷が下りた気分でした」(ケイ)
デビューから10曲連続のミリオンセラーという驚異的な記録を引っさげて、翌1979年にはシングル『Kiss In The Dark』で全米デビューを果たし、全米ビルボード37位を記録。坂本九の『上を向いて歩こう』以来、16年ぶりの快挙となった。さらに、全米3大ネットワークのテレビ局で日本人初となる冠番組をスタートさせるという偉業も成し遂げた。