稲泉さんたちがいたのは1年ほどだが、泣いてばかりいた小さい「れんれん」のことを、サーカスの人たちは覚えていてくれた。昔の写真といまの稲泉さんを見比べると、たしかに面影がしっかり残っている。
「昔のように『れんれん』とすぐ呼んでくれたりして。37、8年ぶりに会うのに、その時間を感じなかったのは、かつての仲間として受け入れてくれたのかな、と思います。彼らにとっても、サーカスは通り過ぎていった場所で、それまでサーカスの思い出をほかの人に話すこともあまりなかったみたいで、サーカスの記憶は強く、色濃く残っているようでした」
サーカスの外側にいる人間が「話を聞かせてください」といきなり訪ねていっても、こんなに率直に話してもらえないだろう。『サーカスの子』は、自身もサーカスの子として一時期を過ごしたことがある稲泉さんにしか書けない本だ。
サーカスにいる間はご飯の心配をすることもなく、何か困ったことがあれば誰かが助けてくれる。だが、非日常の夢がいつまでも続くようなサーカスから一歩外に出ると、これまでとはまったく違う現実が待っている。子どもが学校に入るのをきっかけに移動を続けるサーカスを離れる人は多いが、新しい環境に適応できない人は少なくなかった。
「サーカスを出たあとにどんな苦労をするのか、というのは今回、取材して初めて知りました。サーカスにいたことを夢にたとえる人が多いのは、サーカス自体、ある意味、夢を見せるものなので、イメージが重なるんでしょう」
サーカスにいた当時は知らなかった、キグレサーカスのなりたちや、サーカスをめぐる社会状況の変化なども、元芸人の人たちに話を聞くなかでわかっていったそうだ。
稲泉さんたちがいたキグレサーカスは、俳優の三木のり平が手がける物語性のある構成が人気を集めていた。公演中に事故死したキグレサーカスのピエロを主人公にした映画『翔べイカロスの翼』が1980年に公開されたことも人気の一因で、主演のさだまさしが歌った主題歌の『道化師のソネット』がテーマソングとしてフィナーレではいつも流れていた。
稲泉さんがサーカスにいた1980年代は人気の絶頂期だったが、サーカス人気はその後、下降線をたどることになる。