伯父の高橋寅松氏
子分に汚れ役をさせる世界
伊藤は高寅をターゲットにした読売新聞の暴力追放キャンペーンにも目を通していた。第一弾『暴力の港銚子』が掲載されたのは昭和23年1月23日である。
「黒潮洗う犬吠埼の荒々しさそのままに、銚子市もまた人口七万人の街に九組の博徒、暴力団が入り乱れ、盛り場にイレズミ男たちが横行する暴力に悩む港である。ドスに言論が封ぜられ、顔役に牛耳られている労働組合さえある銚子──以下はこの街の暴力調査の一報である」(読売新聞より)
記事を執筆した読売本社社会部の福岡俍二次長は後日談を雑誌に寄稿している。それによると福岡が銚子入りした夜、ネタ元となった東日本新聞の越川芳麿が来訪してきたという。越川は福岡にこう打ち明けたとされる。
「市長選挙の候補者のことを書いたら、街の顔役から呼び出しを受け、ジャックナイフで傷つけられました。それ以降、家族までおびやかされ、夜の外出も出来ず、取材活動も村八分にされているようで、誰も相手にしてくれません。警察さえ駄目なのです」(『週刊読売』昭和32年10月臨時増刊「暴力の街銚子をさぐる」福岡俍二より)
顔役はもちろん高寅を指す。事件は迷宮入りとなったが、越川は薄暗い裸電球の下で暴漢の顔を見ていた。越川が告げた実行犯は父である伊藤一彦だった。
昭和24年3月5日、シカゴ・デイリー・ニュースのカイズ・ビーチ記者が書いた『銚子のカポネ高寅』が読売新聞に載った。
記事には左顔面を斬りつけられた越川の他、塩酸をかけられ両目を失明した露天商と、高寅の子分に火箸で頭部を刺された食堂『百番』の女性経営者の写真も添えられた。女性を刺したのは紛れもなく高寅の懐刀で代貸の父だった。