熱戦が続く夏の甲子園。大正、昭和、平成、そして令和に至るその長い歴史のなかでは、鮮烈な印象を残すチームが数多く生まれた。「平成最初の夏」の戦いを制したのは東東京代表の縦縞のユニフォームだった。主力として名門・帝京を優勝へと導いた吉岡雄二(巨人、近鉄ほか)に話を聞くと、当時の教えが今も息づいていることを感じさせられる。(文中敬称略)
* * *
1989年夏、前田三夫監督(当時)率いる帝京は東東京を勝ち上がり、夏の甲子園では初めての全国制覇に輝いた。このチームのエースで、4番を任されていたのが吉岡雄二だ。
「帝京の名を全国区にしたのは先に日本一になっていたサッカー部ですが、当時の校長先生は野球部にも期待をしてくれていて、前田監督も前評判の高かった僕らで日本一を達成したかったんだと思います。その年の春の選抜では、優勝候補でありながら、初戦敗退してしまった。周囲の方々がものすごく落胆したのが僕らもわかった。夏こそ日本一になるという気持ちが強くなって、野球への取り組みが変わり、エースとしての責任感みたいなものが生まれた」
決勝の相手は宮城・仙台育英。共に勝てば初優勝だったが、白河の関越えを期待する高校野球ファンで甲子園が埋まった。
「帝京のアルプス席以外は、完全アウェーの雰囲気で、観客のおよそ7割が仙台育英を応援していた。あれから30年以上が経過して、昨年、仙台育英が初優勝したのは感慨深かったですね」
1972年の監督就任から2021年に退任するまで約50年にわたって指揮した前田監督は当時40歳。どこの学校もそうであったように、練習中は水を飲むことが許されず、“ザ・昭和の野球”だったことは想像に難くない。
「入学の前から厳しい監督であることは聞いていましたが、僕らが入学した頃、それまで学校の事務員だった監督が社会科の教員免許を取得して、教壇に立ちはじめたんです。監督が黒板に文字を書いていると、だんだん右斜め上に文字が上がっていくんです。それがやけに記憶に残っていますね(笑)。何か生徒に問題を解かせる時は、野球部の生徒を指名することが多かった。練習中のような怖さはなかったですけど、独特の緊張感がありました」
♦貴さんがテレビで言い始めた
大きく振りかぶって──令和の高校野球ではあまり聞かれなくなった実況のフレーズだが、1980年代にはワインドアップから体を大きく使って投げる豪快な投球フォームが主流だった。吉岡はその代表格であり、帝京はその他にも伊藤昭光(元ヤクルト)や現・横浜DeNAの山崎康晃など、数多の右の本格派投手を生んできた。
「レフトとライトのポール間走ではタイムを計って何本も走り、グラウンドの外周を走ったり、タイヤ引きをしたり、とにかく走らされました。僕はプロに入って(1989年ドラフト3位で巨人入団)すぐに右肩を手術して、最初の2年間は“陸上部”だった。それに耐えられたのも高校時代があったからだし、40歳近くまで現役を続けられたんだと思います」