三重子さんはその日いつものように昼過ぎにはデイサービスから帰宅し、自宅にいるはずだった。しかし夕方義母が戻るといなかった。義母はすぐに滋夫さんに連絡し、急いで帰宅した滋夫さんは自転車で三重子さんの名前を大声で何度も呼びながら浅草一帯から隅田川の向こう岸まで広く捜し回った。しかし三重子さんの姿はなかった。明くる日も家族総出で捜したが、三重子さんは見つからなかった。
一家は三重子さんの大きな顔写真入りのチラシを用意し、浅草の街角に張って歩いた。地元の浅草警察署にも捜索願を出し、チラシ数百枚を預けた。署員は「関東近郊の交番に手配する」と約束したという。しかし、年が明け、春が来ても、三重子さんは見つからなかった。
三重子さんが保護されたとき口にしていた「クミコ」とは滋夫さんと三重子さんの娘の名前だということも分かった。認知症になり、自分の名前を忘れてしまっても、産み育て、呼び続けた娘の名前は三重子さんの記憶にはっきりと刻まれていたのだろう。そう思うと、胸がいっぱいになった。
私たちは滋夫さんと三重子さんがいる施設に行くことにした。車で、一路館林に向かった。
「もうすぐ奥様に会えますね。どんな言葉をかけたいですか」
「どんなって、正直、分からないんだよ。とにかくかみさんが今どうなっているかが分からないからね。今はもう話すことはできないんでしょう……」
うなずくしかなかった。再会の喜び。そんなきれいな言葉だけでは片付けられないほどの時間の隔たりがあることは明白だった。
施設に到着して車を降り、玄関に近づくと、浜野施設長が半分泣いたような顔でそこに立っていた。「お待ちしていました……」黙って頭を下げる滋夫さんのもとに、施設長が促し、介護スタッフが三重子さんを乗せた車いすを押してきた。
「三重子、三重子」
滋夫さんが呼びかけ、手を取る。
「柳田さんパパだよ。パパが会いに来てくれたよ」
施設長の目からとめどなく涙があふれていた。しかし、三重子さんからは、何の反応も得られなかった。7年という時間の流れが、厳然たる事実として2人の間に横たわっていた。それはつかの間の再会で埋まるほど浅くはなかった。滋夫さんは何かをかみしめるように、そして何かに耐えるように、その場に黙って立ち続けていた。