甲府地裁前には、報道陣や傍聴に来た人々が集まった
小学校を休みがちになった被告だったが、のちに別の学校に越境通学してからは「学校や友人関係が被告にとって一番よかったようで、学校のことをよく話してくれるようになった」(同前)という。だが一方で、母親と実父の関係は冷え切っていた。被告の実父は「泥棒をしたことで近所に白い目で見られたことを負い目に感じていたようで遠慮がちになった」ことや収入が減少したことから、夫婦の会話がなくなり、離婚に至る。そしてすぐに、母親はパート先で出会った男性と結婚。この男性が養子縁組により被告の養父となる。そして被告が小学6年の頃、妹が産まれ4人暮らしとなった。
すると養父は「この先、家族が増えると部屋が狭くなる。アパートの隣の部屋も借りよう。被告の部屋にして、行き来できればいい」と言い出し、被告の母親もこれに賛成した。「養父の本心はわからないが、被告を邪魔者扱いしていた印象はなかった」と母親は振り返るが、もともと心臓が悪くペースメーカーを入れていた養父の検査結果が思わしくないことがわかってから、新しい家族にもまた、暗雲が立ち込めはじめる。
「もともと養父は神経質で食品や日用品のストックを置いておきたいタイプだったが、ストックが切れるとすごい剣幕で怒鳴るようになった。料理の仕方や出し方について文句を言われることが増え、被告が私を庇うことが何度もあった。私が責められる姿を見たくなかっただろうし、養父が許せなかったのだろう」(同前)
いつしか被告は養父と2人きりになることを避けるようになったという。そして中学1年生の半ばから不登校になる。2年生の頃に「顔色がすごく悪く、食事がとれない状態になり、幼い頃にもあったチック症が出たことに気づき小児科に連れていくと、起立性調節障害と診断」され、即入院となった。退院後にカウンセリングを勧められたというが被告は「人と話すと疲れる」とこれを拒んだという。
「人を信用できないって初めて思った」
中学2年の夏には養父が病死したが、倒れる直前には暴力が激しくなり、被告の母親は「殴られて生活に限界がきていた。いずれは出ていこうと決意していた」というが、その矢先に亡くなった。
被告は生前の養父と母親と3人で川遊びに出かけ、川の中で尻もちをついてしまったことがあったが、養父は笑って見ていて助けてくれなかったことを振り返りながら、
〈人を信用できないって初めて思った〉
と、被告は当時、母親に言っていたのだそうだ。そんな被告は母親から見れば「几帳面で物静かな性格」だったという。