帰京後、山下氏からその面白さを聞きつけた漫画家の赤塚不二夫氏が東京に呼び寄せ、タモリは才人の溜まり場になっていた新宿・コマ劇場裏にあったバー「ジャックの豆の木」に出没するようになる。常連の1人、なぎら健壱(71)が、赤塚氏からタモリを紹介された夜のことを語る。
「背広の襟を立てたメガネ姿の男が入ってきたかと思うと、小脇に少年ジャンプを抱えてずんずん奥まで進んでいくわけ。
そしたらカタコトの日本語で“今宵集いし民衆たちよ。あなた、その悪魔の水を飲んではいけません”とか言って、お客のグラスの酒を次々と飲み干してしまう。かと思うと、今度は雑誌を開いて“やったなチキショーばかやろう!”とセリフを読み上げて“マタイ伝18章14節で神はこのように申しております”って言い捨てて去ってく。これが彼とのファーストコンタクトでした(笑)」
1975年に赤塚邸での居候生活をスタートさせ、東京に拠点を置いた。
なぎらが居候先に赴くと、朝鮮語のラジオ放送の録音テープがあった。タモリの名物芸「4か国語麻雀」での小芝居のために、タモリはわざわざ聞いて練習していた。教養を生かした遊びと真剣に格闘していたのである。
こうした“密室芸”を磨くなかで、タモリはテレビの世界に導かれていった。
翌1976年にテレビの初レギュラー番組『空飛ぶモンティ・パイソン』(東京12チャンネル、現・テレビ東京系)の放送が始まり、1982年には昼の『いいとも!』、夜の『タモリ倶楽部』が開始。