『日吉アカデミア一九七六』原武史・著
【書評】『日吉アカデミア一九七六』原武史・著/講談社/2860円
【評者】武田砂鉄(フリーライター)
人間の記憶は都合よく整理されていくが、逆に言えば、整理しないまま丸ごと記憶して克明に再現できれば、それが半世紀前の出来事であろうとも、常に現在を問う強固なものになりうるのではないか。
政治学者・原武史が少年時代、東京都東久留米市の滝山団地に住み、狭いコミュニティや小学校で体感した自由と不自由に揺れる日々を捉えた『滝山コミューン一九七四』で達成していたのはまさにそれだった。
世代はだいぶ異なるものの、西武線沿線で育ち、奇しくも私と同じ幼稚園出身でもある著者による述懐は、東京都心ではない、都下の佇まいを明らかにしていた。その続編が本作。慶應義塾普通部を受験するために乗った東急東横線は「西武よりも都会的であか抜けた線」だった。この「あか抜け」に対する羨望と反抗を兼ね備えていた感覚は自分にも残っている。
やがて青葉台へ引っ越すが、滝山団地から向かう時には南武線に乗った。「川崎と立川を結ぶ南武線は、都心を通らないせいか首都圏の国鉄では冷遇されていた」。鉄路から街がいかに広がっていったかを捉え続けてきた著者の視点はこの時点で確立されていたのである。
慶應義塾普通部には自ら選んだテーマで研究活動し、その成果を発表する「労作展」があり、著者は「格下に見られている」南武線と青梅線に焦点を絞った。守衛の目を盗み、国鉄の施設に忍び込み、職員たちを驚かせるマニアックな質問を重ねていく。自ら論点を設定し続け、それを執拗に問い、答えを導き出してみせた。
ならば、横浜線はどうなのか。学問は学舎ではなく、常に「通学」にあった。論点が鉄路のように接続され、連結した列車のように走り出す。思春期特有のわだかまりを再稼働させることで、学問とは何かという根源的な問いを見事に突きつけてくる。
※週刊ポスト2025年5月23日号