“寺尾聰さんとの出会い”を高田文夫氏が振り返る(イラスト/佐野文二郎)
放送作家、タレント、演芸評論家、そして立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、勝手にライバルと思ったり尊敬し憧れたりしている寺尾聰先輩について。
* * *
まずはご報告。以前このページでお知らせした私の喜寿記念ライブ「文夫の部屋スペシャル」は7月26日開催、前売りは5月10日でしたがすいません……数時間で完売です。よみうりホールという大きいハコなんですが、自分の人気、実戦の強さにあきれています。
77になるのに誰も誉めてはくれません。普通ならそろそろ認知もアルツも入ろうかという年齢です。自分の「認知と実力」にあきれています。その昔からチータは歌っております。“幸せはアルツで来ない だからアルツでゆくんだネ 一日インポ 三日で散歩”ってよく分からない歌ですが……。
そんな訳で私のひとつ上、永遠の憧れ“寺尾聰”がアルツってしまう心配な映画『父と僕の終わらない歌』。イギリスであった実話に基づいて映画化。寺尾は何たって格好いい横須賀の楽器屋。ライブハウスで歌うのが得意。その寺尾の記憶が段々と……。明日は我が身とぞっとする。息子が松坂桃李。寺尾の幼なじみ、遊び仲間がいい。いつもスカジャンを着ている三宅裕司、そして私の古くからの友人でもある石倉三郎。やっぱり古くからの友達っていいもんだとしみじみ。
寺尾といえば皆様よくご存じなのが『ザ・ベストテン』で1981年12週連続1位を獲った前代未聞の『ルビーの指環』。4月9日から6月25日まで。圧巻である。1位に「ルビー」がありながら、4位とか5位にも寺尾が歌っていた『SHADOW CITY』が常に入っていた。1位に「ルビー」がいるので常にこの頃2位だったのが『夏の扉』松田聖子であった。扉は開かなかった。
皆様にとっては「ルビー」かもしれませんが、私はその15年以上前から勝手にライバルと思ったり尊敬し憧れたりしてたのが寺尾先輩です。当時大変なエレキブームが巻き起こりテレビでも『勝ち抜きエレキ合戦』が始まります。南新宿にあった山野ホールで収録です。
ハウスバンドとしてシャープ・ファイブ(ディック・ミネの息子、三根さんがいた)、その前でテーマソングを歌うシャープ・ホークス(我らが安岡力也がいた)。今の『M-1』と同じで我々は毎回初戦敗退(私は歌とお喋り担当)。ぶっちぎりに凄いチーム“ザ・サベージ”が現われた。すぐチャンピオン。寺尾聰のその勇姿、着こなしの格好よさ。
昭和41年そのままプロデビュー。『いつまでもいつまでも』。エレキバンドとしての過激さはなくどちらかと言えばカレッジフォーク。GS識者近田春夫は書く「サベージがデビューした昭和41年を厳密な意味で“GS元年”とする」。
※週刊ポスト2025年5月30日号