伊与原新氏が新作について語る(撮影/国府田利光)
「僕は戦後80年を意識したわけでも、評伝小説に挑戦したかったわけでもなく、この猿橋勝子さんのことが書きたかったんです」
戦中から戦後にわたって中央気象台(後の気象庁)でオゾン層や海中の炭酸物質の研究に従事し、昭和29年3月1日にアメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ない、マグロ漁船の乗組員が被曝した第五福竜丸事件では、船員らが僅かに持ち帰った〈死の灰〉の分析を担当。後の部分的核実験禁止条約成立に繋がる成果をあげた地球化学者・猿橋勝子。
伊与原新氏の直木賞受賞後第一作『翠雨の人』ではそんな女性科学者の生涯を、第1章「翠雨の頃」、第2章「霧氷の頃」など、無類の雨好きとして知られた彼女に因む全4章構成で描く。
まさにその波瀾の人生は〈雨とは何だろう。なぜ降るのだろう〉と空を仰ぎ、どこからともなく降り注ぐ水滴の来歴に思いを馳せた少女の頃の、素朴で純粋な好奇心に端を発していた。
発端は10年程前のこと。
「大学院時代の恩師で猿橋賞の選考委員もされていた浜野洋三先生から、猿橋さんがいかに凄い方かということを聞きまして。わりとすぐに『これは小説にしておいた方がいいんじゃないか』と思ったんです。
物語性のある人生だし、最初はモデル小説にしようかとも思ったのですが、やはり周辺人物も含めて実名を出した方が、伝わるものは多いだろうと思い直しました。作者側の自由度が変わるだけであって、事実に基づくフィクションを実名で書こうと、自分さえ覚悟を決めればいいわけです」
冒頭、小平霊園を墓参に訪れ、〈紫陽花は、わたしと気が合うの。雨が好きなのよ〉と生前話していた勝子を偲ぶ元気象研の後輩研究者〈奈良岡〉のこんな一言も、小説ならではだろうか。〈しかしまあ、ほんまのところ〉〈面倒くさいお人でしたよ。あなたは〉──。
大正9年に白金三光町の下町に生まれ、電気技師の父と自分のことは後回しの母、そして9つ上の優しい兄に囲まれて育った勝子は、三田の第六高女を卒業後、本当は東京女子医専を受けたいと誰にも言えないまま父の勧める会社に就職した。が、妹の思いに気づいた兄の後押しもあり、21歳で女子医専を受験。ところがマリー・キュリーにも並ぶ憧れの人・吉岡彌生学長が面接で放った一言に反発し、試験に合格しながら入学を辞退。その帰り道に校門でチラシを渡された新設校、帝国女子理専に進みたいと、両親を説得するのである。
「彼女を自分にも他人にも厳しい人だったと言う人がいる一方、平塚らいてうは清楚で大人しい人と書いていたり、評価は当然、人によって様々なんですよね。その中で膨らませたのが、面倒くさい人という言葉。その面倒くささの中にある可愛げとか魅力とか、そうとしか生きられない自分を好きだったり嫌いだったりする厄介さを、僕はむしろとても素敵だと思うので」
こうして帝国女子理専で物理学を学び(現・東邦大)、年下の同級生から〈小隊長〉、〈かつ姉〉と慕われる一方、昭和16年の日米開戦以来、実験機材にも事欠き、気象台の実習生となったことが彼女の運命を変えた。地球化学の先駆者で生涯の恩師、三宅泰雄との出会いである。