この〈日本人には珍しいほどのリベラルな思想〉の主は勝子を1人の科学者として扱い、後に〈微量分析の達人〉と呼ばれる彼女の手腕を高く評価。粘り強く作業を続ける日々に勝子は早くも確信するのだ。〈無心にガラスをすりつぶすという行為の中にこそ、科学がある〉〈科学者とは、それを信じて乳棒を握り続ける者のことをいうのだ〉と。

 やがて戦局は一層悪化し、卒業後は嘱託となった勝子も参加した各種戦時研究の詳細や藤原咲平台長の出身地・上諏訪に気象台が疎開した際の様子など、戦時下における科学者それぞれの姿勢も、読み処のひとつだ。

「戦時研究の話は僕も詳しく知らなくて、根室沖で霧の研究をしたかと思うと船の航跡を消す研究をしたり、軍事と言いつつ基礎研究に拘っている点も興味深い。もちろん研究者の本心まではわかりませんし、後からは何とでも言えるんです。本当は嫌だったとか日本は負けると思ったとか。でも三宅先生なら何とかその中でもサイエンスを守る術を模索したのではないかと」

 そして戦後、先述の死の灰や放射能雨の分析で国際的に知られた勝子が、昭和36年、三宅と共に開発した日本発のセシウム濃縮方法、〈AMP法〉の精度を疑う米国側に招かれ、米原子力委員会の立会いの下、〈相互検定〉の形で直接対決するまでを、本書は主に追う。

「権威になった後のことは特に僕が書く必要はないかなと。目の前に降る雨を当たり前だと思わない心が猿橋さんを科学者にさせたのでしょうし、本人は一科学者として地道に手を動かし、自然の神秘を追い続けたくても、時代がそれを許さなかっただけだと思います。

 戦争もすれば地球環境も壊す人間の理不尽さをいかに理性で制御するかという闘いをしてきたのが現代であり科学者で、その理性と感情の闘いを僕は描いてきたつもりです。特に今はギリギリの瀬戸際で、みんなが理性を手放したら、一気に崩れると思います」

〈人間は、この自然の秘密を利用できるほど成熟しているだろうか〉という敬愛するマリーの問いや、〈我々科学に携わる人間は同じ穴の狢〉という三宅の言葉を胸に刻み、なおも進む勝子の中に去来するもの。それは科学の恩恵を受ける私達全員が共有すべき問いでもある。

【プロフィール】
伊与原新(いよはら・しん)/1972年大阪府生まれ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学専攻。博士課程修了後、大学勤務を経て、2010年『お台場アイランドベイビー』で第30回横溝正史ミステリ大賞を受賞しデビュー。2019年『月まで三キロ』で第38回新田次郎文学賞。2025年『藍を継ぐ海』で第172回直木賞。著書は他に『宙わたる教室』『八月の銀の雪』『オオルリ流星群』『青ノ果テ 花巻農芸高校地学部の夏』『ブルーネス』等。168cm、70kg、O型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2025年8月15・22日号

関連記事

トピックス

広陵野球部・中井哲之監督
【広陵野球部・被害生徒の父親が告発】「その言葉に耐えられず自主退学を決めました」中井監督から投げかけられた“最もショックな言葉” 高校側は「事実であるとは把握しておりません」と回答
週刊ポスト
薬物で何度も刑務所の中に入った田代まさし氏(68)
《志村けんさんのアドバイスも…》覚醒剤で逮捕5回の田代まさし氏、師匠・志村さんの努力によぎった絶望と「薬に近づいた瞬間」
NEWSポストセブン
自宅で亡くなっているのが見つかった中山美穂さん
《ずっと若いママになりたかった》子ども好きだった中山美穂さん、元社長が明かした「反対押し切り意思貫いた結婚と愛息との別れ」
週刊ポスト
連敗中でも大谷翔平は4試合連続本塁打を放つなど打撃好調だが…(時事通信フォト)
大谷翔平が4試合連続HRもロバーツ監督が辛辣コメントの理由 ドジャース「地区2位転落」で補強敢行のパドレスと厳しい争いのなか「ここで手綱を締めたい狙い」との指摘
NEWSポストセブン
伊豆急下田駅に到着された両陛下と愛子さま(時事通信フォト)
《しゃがめってマジで!》“撮り鉄”たちが天皇皇后両陛下のお召し列車に殺到…駅構内は厳戒態勢に JR東日本「トラブルや混乱が発生したとの情報はありません」
NEWSポストセブン
事実上の戦力外となった前田健太(時事通信フォト)
《早穂夫人は広島への想いを投稿》前田健太投手、マイナー移籍にともない妻が現地視察「なかなか来ない場所なので」…夫婦がSNSで匂わせた「古巣への想い」
NEWSポストセブン
2023年ドラフト1位で広島に入団した常廣羽也斗(時事通信)
《1単位とれずに痛恨の再留年》広島カープ・常廣羽也斗投手、現在も青山学院大学に在学中…球団も事実認める「本人にとっては重要なキャリア」とコメント
NEWSポストセブン
芸能生活20周年を迎えたタレントの鈴木あきえさん
《チア時代に甲子園アルプス席で母校を応援》鈴木あきえ、芸能生活21年で“1度だけ引退を考えた過去”「グラビア撮影のたびに水着の面積がちっちゃくなって…」
NEWSポストセブン
異物混入が発覚した来来亭(HP/Xより)
《ラーメンにウジ虫混入騒動》体重減少、誹謗中傷、害虫対策の徹底…誠実な店主が吐露する営業再開までの苦難の40日間「『頑張ってね』という言葉すら怖く感じた」
NEWSポストセブン
暴力問題で甲子園出場を辞退した広陵高校の中井哲之監督と会見を開いた堀正和校長
【「便器なめろ」の暴言も】広陵「暴力問題」で被害生徒の父が初告白「求めるのは中井監督と堀校長の謝罪、再発防止策」 監督の「対外試合がなくなってもいいんか?」発言を否定しない学校側報告書の存在も 広陵は「そうしたやりとりはなかった」と回答
NEWSポストセブン
イギリス出身のインフルエンサーであるボニー・ブルー(本人のインスタグラムより)
《過激すぎる》イギリス公共放送が制作した金髪美女インフルエンサー(26)の密着番組、スポンサーが異例の抗議「自社製品と関連づけられたくない」 
NEWSポストセブン
悠仁さまに関心を寄せるのは日本人だけではない(時事通信フォト)
〈悠仁親王の直接の先輩が質問に何でも答えます!〉中国SNSに現れた“筑波大の先輩”名乗る中国人留学生が「投稿全削除」のワケ《中国で炎上》
週刊ポスト