旭川実業高校出身の芸人・とにかく明るい安村(インスタグラムより)
野球少年たちの憧れの地・甲子園。自分の息子が出ているわけでも、知り合いの子が出ているわけでもないの、我々はつい彼らを目で追ってしまう。甲子園という舞台で汗を流し、破顔し、声を張り、涙を流す球児たちを通じて「甲子園」の魅力に迫る。【全3回の第3回】
出場した人にとっても、出場できなかった人にとっても、甲子園は「気づき」を与える場所なのだろう。これまで多くの球児を取材してきたライターで作家の菊地高弘さん(43才)が話す。中央大附属高校に進学した菊地さんは、甲子園に出場することはできなかったが、「頑張れば報われる」と心で唱えて猛練習に励んだ。
「ぼくは、努力はうそをつかないと信じて練習していたけど、やり方を間違えると努力は平気でうそをつくことを学びました。いまにして思えば、練習の方向性や日々の過ごし方に甘さがあったし、取材を通じて、ぼくたち以上に頑張っている球児がいくらでもいたことを知りました。野球に限らず、何でも盲目的に進んでしまうと人は間違うんですよ」
甲子園は「夢と現実の狭間」にあるのではないかと、菊地さんが続ける。
「高校を卒業すると進学や就職といった人生の転機を迫られるから、甲子園はファンタジーに浸れる最後の場所なんです。野球が終わったら夢から覚めて、現実に戻らなければならない。そうした無常さがあるから、高校球児は試合に負けて泣くんじゃないかな」
難病に打ち勝ち、愛工大名電高校で甲子園に出場した元プロ野球選手で起業家の柴田章吾さん(36才)は、答えのない道を歩んで甲子園まで来たと話す。
「みなさんが想像するより病弱な高校生活で先が見えないなか、毎日どうしたら野球ができるようになるか、答えのない場所を駆け巡っていたので、気がついたらこんなところまで来たんだなという感動がありました。でも、もう一回やれと言われたら、どうやればいいかわかりません。それほどまで、夢中で野球と病に向き合った3年間でした」
お笑い芸人のとにかく明るい安村(43才)は北海道・旭川実業高校3年時の1999年夏の甲子園に出場した。北海道の大地で練習していた旭川実業の球児たちは、甲子園の土を踏んで、2勝をあげた。ピンチになると、ベンチの安村が伝令として緊迫するマウンドに駆け寄るシーンもあった。だが味方を鼓舞するような言葉はかけず、時には「今日の晩ご飯、ハンバーグらしいよ」と話すこともあったという。
「ピンチになると監督に『安村、行ってこい』と言われて伝令に行くけど、何をしゃべればいいか聞いてないんです。だからみんなで『どうする? どうする?』『やばいじゃん。これピンチじゃない?』と話して、時間が来たらベンチに帰った。特に監督に作戦があったわけではなくて、空気を和ませてリラックスさせる役割だったのかなと思います」(安村)
甲子園はとにかく楽しい場所だったと安村は言う。
「ぼくらはあまり強くなく、甲子園に行くことが目標だったので、出場が決まってからは試合に勝つよりみんなで楽しもうという感じだったかな。よく覚えているのは、北海道から兵庫まで行ったので甲子園のベンチがすごく暑くて、喉が渇いてレギュラー陣が飲むはずの飲み物をぼくがすべて飲み干してしまったこと(笑い)。甲子園は夢のような場所でした。みなさんにもぜひ現地に行って楽しんでもらいたい。安心してください、楽しいですよ!」
聖地でのプレーがかなわなかった者にとっては、果たしてどんな場所になるのだろう。コロナ禍で大会が消滅した城西大学附属城西高校野球部(東京都)出身の大武さんにとって、甲子園は夢ではなく絶望の場だった。
「中止が決まったときは、何のために生きているんだろうと思いました。東京五輪は1年延期だったので選手が再チャレンジする機会があったけど、高3の夏の甲子園が中止となったらぼくらは即引退です。だからぼくらの世代は、2020年5月20日を忘れることはないと思います」(大武さん・以下同)