趣味には真剣な江戸時代の価値観
それにしても若旦那物はなぜこうも魅力的なのか。
「貨幣経済の充実に伴って、センスがよくて粋な人たちが町人層から出てきた時代背景があります。大河の『べらぼう』の蔦重やその仲間も文芸のセンスに優れたお洒落グループで、そこから出版文化が大きく花開くことになりました。
当時の価値観では、貧乏でも仕事ができなくてもさほど見下されないんです。下手に出世したらしんどいぞ、なんて。でも趣味には真剣で、今日はどんな面白いことをしようかと目を輝かせる人たちがいた。
豪商と武家が骨董を〈賄賂〉する世界がありながら、趣味まっしぐらのオタク文化も混在する、世界的に見ても非常にチャーミングな時代です。今、海外の人たちに支持されているカワイイや推し文化も江戸時代にすでに根があって、現代と地続きなんです」
一方、各地で飢饉が起き、米不足と米価の高騰、大塩の乱につながる社会構造の疲弊にも、本作は寅蔵の自問自答を通じて目を配る。
〈金がすべての世の中で、黄金色の泡を啜って〉〈勝手にええとか、ようないとか筋書き拵えて〉〈飢えた者の腹の足しには、ちっともならんもんを。一粒の足しにもならんもんを〉……。
「小説も同じかもしれない。それでも、乱のあとの焼け跡で娯楽を求める人々の姿を書きました。人間には両方必要なんです。腹を満たすものと心を満たすもの、その両方が」
〈目に見えんものを観てこそ、聞こえぬものを聴いてこそ、この世は面白うなる〉
そう信じるお喋りどらちゃんの上方弁が耳に心地よい、とことん痛快な時代小説だ。
【プロフィール】
朝井まかて(あさい・まかて)/1959年大阪生まれ。甲南女子大学文学部卒。2008年に小説現代長編新人賞奨励賞を受賞し、『実さえ花さえ』でデビュー。以来、『恋歌』で直木賞、『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞、『すかたん』で大阪ほんま本大賞、『眩』で中山義秀文学賞、『福袋』で舟橋聖一文学賞、『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、『グッドバイ』で親鸞賞、『類』で芸術選奨文部科学大臣賞と柴田錬三郎賞を受賞。2018年に大阪文化賞。他にも著書多数。今も大阪在住。156cm、O型。
構成/橋本紀子
※週刊ポスト2025年9月19・26日号