日本の熊生息数は1989年に「熊撃ち禁止令」が出されるまで減少の一途だった
荒廃した「里山」は野生動物たちの“楽園”に
「このままでは日本列島の熊は絶滅する……」。世界的な自然保護や動物愛護もあって熊保護の機運が高まり、1989年、農林水産省と環境庁(現・環境省)は、いわゆる「熊撃ち禁止令」を出す。それまで冬ごもり(冬眠)明けで飢えて活発に行動をする“春熊(はるぐま)”をターゲットにしたヒグマ駆除活動は禁止となる。
さらに1970年代以降、木材需要が一変し、国内林業が崩壊していく。パルプなどの材木は海外の輸入材へ置き換わり、電信柱も木材からコンクリートへと変わった。これにより林業従事者は1万人から激減し、2000年代にかけて2000人にまで減少する。これがアーバン熊大量発生への「第一歩」となった。
1970年代以降、先に述べた林業崩壊で、人工林(二次林)の多くが放棄されて「荒廃山林」となった。同時に農業では化学肥料が普及し、里山の腐葉土を使わなくなった。さらに灯油やエアコンの普及で薪まき需要が消滅し、里山がどんどん荒廃していった。これに加えて都市化と核家族化が加速し、とくに中山間部では過疎化と廃村が進んで耕作放棄地が増大する。
この中山間部の荒廃山林と耕作放棄地が野生動物の「楽園」となるのだ。スギの人工林といっても間伐処理したのち、10年単位で人の手が入らなければ、広葉樹林が生い茂り、ドングリ類の宝庫となるのだ。荒廃山林となったスギの人工林では7割が広葉樹化するという。耕作放棄地も食用となる草や低木が増え、野生動物にとって安全な生息域へと変わる。要するに日本の国土の4割に当たる里地里山のうち、中山間部を中心に野生動物の楽園へと様変わりしていったのだ。
その一方でスポーツハンティングは下火になり、狩猟人口は半減(現在は20万人)。高齢化も進み、当然、熊狩り名人たちの引退も相次ぐ。
この劇的な環境の変化の結果、北海道全土で5000頭にまで減少していたヒグマは、わずか30年で倍増したほどなのだ。当然、ツキノワグマも生息数と生息域が一気に倍増する。奥山でひっそり暮らしていた幻の熊たちが、平成期にかけて人里近い中山間部まで降りてきたのだ。
ここで重要なのは、熊だけが倍増したわけではないという点だ。北海道ならばエゾシカ、本土ならばシカやイノシシもまた一気に激増する。
ここでアーバン熊は「二歩目」へと進む。肉食化である。
激増したシカやイノシシの農作物への食害拡大で農林水産省は、これらの狩猟を推奨してきた。高齢化した猟友会ではこれに「罠猟」で対応。その罠にかかったシカやイノシシを、生息数の増加で飢えた若熊たちが横取りするようになったという。
意外に思うかもしれないが、熊は狩りが苦手で主食は木の実や樹木(皮を剥いで柔らかい形成層を食べる)。肉食は魚や昆虫が基本となる。それが罠にかかった、文字通り「おいしい獲物」を食べることを覚えた。つまり、罠を仕掛けてある住宅地近くの里山まで熊が接近してきたのである。
次の記事では「凶悪かつ危険な熊の大量発生」が起きている、熊社会の大きな変化について解説する。
(後編を読む)
取材・文/西本頑司
