梨元勝一覧

【梨元勝】に関するニュースを集めたページです。

勝新太郎の逸話を語る芸能レポーター・東海林のり子氏
東海林のり子と前田忠明が語る勝新太郎の逸話「あんな面白い被告はいなかった」
 梨元勝氏(享年65)が2010年に死去し、井上公造氏(65)が今年3月に引退するなど、芸能レポーターという職業は、もはや化石となりつつある。しかし、現場主義を貫く彼・彼女らがいたからこそ伝わるものもあった。ベテラン芸能レポーターの東海林のり子氏(87)と前田忠明氏(80)が、かつての大物芸能人らとのエピソードを明かした。【全4回の第2回。第1回から読む】 * * *前田:昔は今じゃ考えられないことがたくさんあったね。タレントにインタビューして優しい言葉でも掛けると、帰りに本人が「前田さん、お車代持っていってよ」と分厚い封筒を渡してくるんだよ。30万とか50万くらい包んでたんじゃない? 「それは受け取れません」って断わったよ。東海林:誰が渡したの?前田:もう時効だから言うけど、美空ひばりさんやフランク永井さん、島倉千代子さんとか昔気質の歌手だね。東海林:勝新さん(勝新太郎)も豪快だったわね。『俺・勝新太郎』(廣済堂出版)という本を出した時、数十人いるマスコミに「サインしてやるから」ってペンを走らせていたの。書き終わると、「今日は気持ちいいなあ。さあ、みんなで銀座に飲みに行こう」って(笑)。前田:「金はないけど大丈夫だ」って言ってたな。東海林:マネージャーが必死に「それはできません!」って止めてた。前田:でも、本当に金がなくても問題なかったみたい。店側も、いずれ払ってくれると思っていたんじゃない?(映画の撮影後などに)何十人でも連れて行ってたんだから。東海林:勝新さんの麻薬・大麻取締法違反(密輸出)の裁判をずっと傍聴していたけど、あんな面白い被告はいなかった。まず、テンガロンハットを被って堂々と入ってくるの。公判中、検察に問い詰められると、勝新さんは傍聴席を見て「そうなのか?」とオーバーリアクションを取る。弁護士も勝新さんに影響されて、私たちに向かって身振り手振りを交えながら主張するの。前田:映画だな、そりゃ。東海林:裁判長も最初は「正面を向いてください」と穏やかに注意するんだけど、だんだん「こっちを向きなさい!」と怒り始めてくるの。前田:勝新さんが「パンツにコカイン」で捕まった時、ハワイまで裁判を見に行って、法廷から出てくるところを直撃したよ。左に梨元勝、右に俺がいたの。そしたら、2人の腕を抱えて「おう。揃ったな。飲みに行くか」って。今、裁判を終えたところだよ(笑)。この人は何を考えているのかと思ったけど、サービス精神旺盛だったね。東海林:(妻の中村)玉緒さんもよく耐えたわね。前田:勝新さんが何か騒動を起こすたびに、玉緒さんから自宅に電話が来たよ。「番組でどんなこと言うつもりでっか? あれでもウチの旦那ですから頼みますわ」って(笑)。東海林:忠ちゃん、芸能人に「助けてください」ってよく頼まれたでしょ。前田:これが難しいんだよ。男女の問題だったら、どっちかを贔屓しちゃいけない。5年くらい付き合っていた梅宮アンナと羽賀研二が別れる時、アンナに独占インタビューしたの。東海林:芸能レポーターって、味方につけたくなるのよね。いろいろ言われるから(笑)。前田:何度も破局の噂があったから「本当ですか?」と聞いたら、「別れます。嘘は言いません」って。数年後、羽賀が別の人と結婚した時、「ハワイで挙式するので前田さん来てください」と頼まれちゃってさ。取材だから行ったよ。そしたら、アンナの関係者に「どっちの味方なのよ!」って怒られた(笑)。東海林:この仕事は、味方とか敵とかじゃないのよね。前田:こんなこともあったなあ。長渕剛がテレビドラマに主演している時、共演女優の清水美砂との朝帰りを週刊誌に撮られて、各局がインタビューの申し込みをした。そしたら、なぜか長渕が「前田忠明ならいい」と指名してきて。たしかほとんどの局でそのVTRを放送したけどね。(第3回につづく)【プロフィール】東海林のり子(しょうじ・のりこ)/1934年生まれ。事件・芸能レポーター。立教大学卒業後、1957年ニッポン放送にアナウンサーとして入社。1970年退社後、『3時のあなた』『おはよう!ナイスデイ』(ともにフジテレビ系)などの番組でレポーターとして活躍。前田忠明(まえだ・ただあき)/1941年生まれ。芸能レポーター。 明治大学卒業後、1970年光文社「女性自身」の記者として入社。1980年フジテレビと専属契約を結び、『おはよう!ナイスデイ』『TIME:3 タイムスリー』(ともにフジテレビ系)などの番組でレポーターとして活躍。【聞き手・構成】岡野誠(おかの・まこと)/1978年生まれ。ライター。著書に『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記 1979-2018』(青弓社)がある。執筆記事〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞に。※週刊ポスト2022年4月29日号
2022.04.19 16:00
週刊ポスト
2020年2月に中居正広が開いたジャニーズ事務所退所会見。厳しい質問にも淀みなく回答し、株を上げた(時事通信フォト)
芸能レポーター不在の時代 芸能人は自己発信で炎上のリスク
 テレビ各局に午前と午後、8つのワイドショーが乱立した昭和時代と比べ、昨今はタレントの記者会見も稀で、芸能レポーターの出番は激減している。1988年、芸能レポーターの元祖だった梨元勝さんの誘いで『週刊女性』から転身した石川敏男氏が語る。「昔はタレントの所属事務所に釘を刺されても、お構いなしに追い掛けていたし、切り込む質問もしていた。ワイドショーが高視聴率だったから突っぱねることができたのですが、今は局の編成部が注文を付けてくるので、芸能スキャンダルを取り上げづらくなっています」 制作費の削減も、現場に出づらい空気を醸成する。1982年にスポーツ紙記者から転身した城下尊之氏も、かつてとの違いに思いをはせる。「昔は各ワイドショーにカメラクルーが6班いて、毎日稼働していましたが、今は会見があっても2つのワイドショー合同で1班出す場合すらあります」 時代も芸能レポーターに逆風が吹いた。インターネットやSNSが普及すると、芸能人が自ら結婚や離婚を発信するようになったからだ。だが、SNSでの発信は一方的になりがちになる。 同時に、会見の必要性を感じさせる出来事もあった。2016年のベッキーの不倫騒動では、報道陣からの質問は受け付けず、深々と頭を下げるだけという不自然な対応に疑問の声が噴出。直後に報じられた続報でイメージはさらに悪化した。1970年代後半から芸能レポーターとして活躍する前田忠明氏が、ベッキーの会見を振り返る。「事務所の担当者にちゃんと質問させないと尾を引くよと助言しましたが、『方針が決まっているんだ』と言われました。会見ですべて話した方が次に繋がるものです」 今年、中居正広は独立会見でタブー視されていたSMAPメンバー不仲説や再結成の可能性にも言及した。「会見後にSMAPの憶測記事が激減しましたが、すべての疑問に2時間も掛けて真摯に答えたのが一因でしょう」(前出・城下氏) 直撃取材や辛辣な会見が姿を消し、芸能人にとって良い時代が訪れたように思える。だが、炎上の可能性を秘める自己発信の落とし穴を考えれば、受難の時代と言えるのかもしれない。※週刊ポスト2020年10月2日号
2020.09.27 07:00
週刊ポスト
84年の映画『カポネ大いに泣く』の制作発表(写真は右から沢田、田中、萩原健一、チャック・ウィルソン、鈴木清順監督/共同通信社)
レポーター福岡翼さん 豊富な映画知識で大女優から絶大な信頼
「結婚指輪お願いします!」。記者会見では芸能レポーターの梨元勝さんや須藤甚一郎さんが激しく突っ込む中、福岡翼さんは一風変わった質問でアプローチした。いまや定番となった“結婚指輪披露”の懇願も彼の発案だった。 1963年、小学館に入社した福岡は創刊直後の『女性セブン』に配属され、「朝丘雪路の結婚」などのスクープを連発。1970年代前半に映画評論家としてテレビ界に転じ、『奥さま8時半です』(TBS系)で芸能レポーターとしても活躍し始めた。当時から芸能レポーターとして活躍する前田忠明氏が振り返る。「舌鋒鋭く迫る2人を尻目に、翼は『今日のヒールの高さは?』『なんでミニスカートなんですか?』と独特の視点で聞く。一見どうでもいいことだけど、相手の心を和ませる効果があるんだよね。アイツしかできない質問だった」 勉強熱心な一面も芸能人たちの心を掴んだ。自宅の書斎は映画関連本で埋め尽くされ、重量に耐えられなくなった2階の床が抜け落ちたこともあったという。1980年代半ばから芸能レポーターとして活躍する井上公造氏が語る。「映画や舞台を年に数百本観ているし、スキャンダルの時だけでなく、撮影現場にも頻繁に顔を出すから、森光子さんや富司純子さんなどの大女優から絶大な信頼を得ていました。『福岡さんなら話す』と独占インタビューを取ることも多かった」 一方で、不倫を取り沙汰された沢田研二と田中裕子(のちに結婚)の関係にはしつこく迫った。2人が映画で共演すると、制作発表の席で「また騒がれると意識しませんでした?」と詰問。業を煮やしたジュリーは、イビキをかく振りをして机に突っ伏した。松田聖子が郷ひろみとの破局会見を開くと、「新しい恋人がいるのか?」と急所を突き、「今、こういう状況の時にそういうこと……」と嗚咽させ、名場面を演出した。 相手に敬意を払いながらも、突っ込む時は突っ込む。緩急自在の引き出し方でワイドショー人気を牽引したレポーターだった。(文中一部敬称略)●福岡翼(ふくおか・つばさ)/1940年生まれ、高知県出身。早稲田速記学校卒業後、63年に小学館入社。『女性セブン』で活躍後、1974年から『奥さま8時半です』(TBS系)に出演し、芸能レポーターや映画評論家として活躍。「会見でスタッフがゴミを置きっぱなしにすると、厳しく叱っていました。『自分たちは芸能人を追及する立場。普段の行動はきちんとしましょう』と仰っていました」(城下尊之氏)。2019年4月20日、慢性心不全増悪のため死去。享年79。※週刊ポスト2020年10月2日号
2020.09.26 07:00
週刊ポスト
梨元勝さん 大物スターも一目置いた取材力と行動力
梨元勝さん 大物スターも一目置いた取材力と行動力
 圧力を跳ね除け、微塵も忖度しない。事務所の大小に関係なく、スキャンダルを報道する姿勢を目の当たりにした芸能人の間では、「梨元に言いつけるぞ!」という言葉が流行した。 梨元勝さんがレポーターに転身した1976年、歌手の克美茂が殺人事件を起こす。他局が本人を追い掛ける中、梨元は被害者の実家を直撃。部屋に招き入れられると、母親が仏壇の前で悲哀を語る傍らで、父親は台所のテーブルで出刃包丁を叩きつけた。戦慄的な映像は大きな話題を呼び、梨元勝は日本中にその名を轟かせた。「恐縮です!」の代名詞で知られた突撃レポーターの先駆者は、我先に現場に向かった。会見には2時間前に到着し、タレントに最も近い場所を確保した。岡田有希子が飛び降り自殺を図った時も現場に一番乗りし、事務所内に入り込んで専務にいち早くマイクを向けた。同時期に芸能レポーターとして活躍した前田忠明氏が語る。「各局も続々と押し寄せたので、相澤秀禎社長が経緯を話してくれた。あの頃は現場に何社も集まるから、自然と会見せざるを得ない状況になった。その中で梨元はよく一番乗りしていたよ」 スクープを追い求める執着心に、大物スターも一目置いていた。勝新太郎がホノルル空港でコカインと大麻所持で逮捕された時、各社が勝との接触に腐心する中、梨元は一緒にゴルフをするほど食い込み、独占で肉声を伝えた。暴行事件を起こした木村一八が少年院から出所すると知ると、すぐに父親の横山やすしを訪ねた。1986年から約8年にわたり、梨元の事務所で行動を共にした井上公造氏が語る。「ゴルフに行くために梨元さんと首都高を走っていたら、情報が入ってきた。すぐに大阪の自宅に飛んだら、『梨元、一等賞や。おまえだけに話す』と心を開いてくれた。他のマスコミにバレないように数日間ホテルに泊まってもらい、生放送に一八さんと2人で出てくれました」 情報を嗅ぎつける能力も一級品だった。ライバルだった前田氏が思い起こす。「1998年、離婚直前のマリアンがハワイに滞在していると聞いて、俺が飛行機に乗った。そしたら、どこから聞きつけたのか、30分後の便で梨元が追い掛けてきたんですよ(笑い)。俺は空港に着くなりホテルを取って、独占インタビューに成功した。代わりに梨元は夫を取材した。常に独自ネタを求める男でしたね」 梨元は自分のスクープに局の上層部から横槍が入るたびにテレビ局を移った。1988年、梨本の誘いで『週刊女性』から芸能レポーターへ転身した石川敏男氏が明かす。「快く思わない事務所やタレントは大勢いた。でも、自分の主義主張は決して崩さない。彼が芸能レポーターのスタイルを作ったし、他の人は何をしても亜流なんです。それくらいの男でした」 癖はあまりにも強かった。だが、梨元さんは一本筋の通った男の中の男だった。(文中一部敬称略)●梨元勝/なしもと・まさる/1944年生まれ、東京都出身。法政大学社会学部卒業後、1968年に女性週刊誌『ヤングレディ』の記者に。1975年末に『アフタヌーンショー』(NET系、現テレビ朝日系)の芸能特集にゲストとして呼ばれる。翌年、同番組のレギュラーに。日本初の“芸能レポーター”として、突撃スタイルを確立。前田忠明と犬猿の仲も噂されたが、梨元が「仲悪いことにした方が面白い」と前田に提案したというのが真相。2010年8月21日、肺がんのため死去。享年65。※週刊ポスト2020年10月2日号
2020.09.24 07:00
週刊ポスト
80年代の芸能レポーター ギャラが事件記者より高かったワケ
80年代の芸能レポーター ギャラが事件記者より高かったワケ
 日本が経済大国として世界にその名を轟かせていた1970年代後半、テレビ界にも革命が起きていた。女性週刊誌の専売特許だった芸能人の熱愛や不倫を、ワイドショーが取り上げるようになったのだ。当時から芸能レポーターとして活躍する前田忠明氏が語る。「従来の『小川宏ショー』(フジテレビ系)などは生活情報やスターを呼んでのトークが中心で、私生活の話題はその時に少し出る程度でした」 1975年末、『アフタヌーンショー』(NET系、現テレビ朝日系)が年間総決算の芸能特集を組むと、高視聴率を記録。ゲスト出演していた『ヤングレディ』記者の梨元勝は翌年から番組と契約し、芸能人に直撃するスタイルを確立した。「時を同じくして肩に担げるENGカメラが登場し、スタジオを飛び出して現場に向かう機会が大幅に増え、レポーターという職業が生まれたのです」(前田氏) テレビ局は『女性セブン』の福岡翼、『女性自身』の前田忠明、『微笑』の須藤甚一郎を引き抜き、1980年代には『FOCUS』など写真週刊誌が創刊され、取材合戦は熾烈を極めた。「テレビ全局であるタレントを張り込んでいた時、午前0時になっても帰ってこないので、話し合って一斉に撤収した。でも、15分後に行ったら全員戻っていました(笑い)」(前田氏) 芸能ネタは視聴率を稼ぎ、早朝から深夜まで現場を駆け回るレポーターは報酬も良かった。1988年、梨元の誘いで『週刊女性』から転身した石川敏男氏が明かす。「ギャラは出版社時代の倍になったし、移籍の支度金までもらいました。当時、日本テレビは『スターに対して卑屈な気持ちになったらいけない』という理由で、事件記者よりも高かった」(文中一部敬称略)※週刊ポスト2020年10月2日号
2020.09.22 16:00
週刊ポスト
自らを「ゴキブリ並みの生命力」と評すせんだみつお(公式ブログより)
改名王・せんだみつお 『二千田光雄』『浦島みつお』を経た今
 40年続く“氷河期”にピリオドを打てるか──。6月29日、『ナハ!ナハ!』のギャグで知られるせんだみつお(71)が生島ヒロシとともに『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』(ニッポン放送)に生出演。せんだ自ら“芸能界の恩人”と語る和田アキ子に、『生島企画室』の所属になったことを伝えた。同事務所の会長を務める生島は、せんだの契約形態について、「何かあると大変なんで、弁護士に相談して月極駐車場ならぬ月極契約タレントにしました。1か月単位です」と冗談交じりに話した。 1970年代後半、『ぎんざNOW!』や『うわさのチャンネル』などテレビ、ラジオのレギュラーを10本以上持っていたせんだも、1979年から人気が下降。それでも、話題作りには事欠かず、芸能人の命である名前を何度も変えている。 ムッシュ中野に始まり、せんだみつお、せんだ光雄、千田光雄、二千田光雄、せんだみつお、浦島みつお、せんだみつお……なぜ、これほど芸名を変更するのか。3年前、せんだは雑誌の取材でこう答えている。〈売名です。この頃、前座が多いから『前座みつお』に変えようかと思って。死んだら『死んだみつお』にする〉(『FLASHダイアモンド』2016年10月27日号) 一体、どんな経緯で改名をしてきたのか。当時の記事を振り返ってみよう。ミレニアムの2000年を迎える2か月前、スポーツ紙がこう伝えている。〈せんだ光雄→「二千田光雄」“独断”ミレニアム改名宣言もマネジャーが反対〉(スポーツニッポン・1999年11月10日) 当時、NHK時代劇『スキッと一心太助』に出演中で、年明けには蜷川幸雄演出の舞台『唐版 滝の白糸』が控えていた。取材で突然、改名を明かしたせんだにマネジャーが猛反対。役者としての仕事を抱えていることを考えれば、自然な反応と言える。結果的に、せんだ光雄から千田光雄への変更で話が落ち着いた。 しかし、3か月後、驚愕の記事が掲載された。〈2000年にちなみ、同時に「せんだ光雄」から「二千田光雄」に改名するつもりだったが、周囲の猛反対に遭い、名字を漢字にするだけであきらめたタレントの千田光雄(52)が、あらためて年内は呼称を「二千田」で通すことにした。(中略)所属事務所は「もう止める気はありません」とあきれて!?いる〉(スポーツニッポン・2000年2月25日)“二千田光雄”の名はミレニアムの年限りで終了。芸名を元の“せんだみつお”に戻した翌年、せんだは慎吾ママの『おっはー』をアレンジした『ナッハー』というギャグを発表。当時、坂本九のカバーとしてヒットしていたウルフルズやRe:Japanの『明日があるさ』に便乗して『明日がないさ』を発売。精力的に活動するも、不発に終わった。 芸能生活50周年を迎えた2009年には、“せんだ”の文字を外す大英断に出る。6月21日、BS11の『恐縮です!梨元勝です!』で「7月8日のナハ!の日から1年の期間限定で改名します」と宣言し、“浦島みつお”の芸名を発表。忘れられている自分の存在を思い出してほしいという意味を込め、再起を図った。 だが、わずか4か月後、朝日新聞にこう報じられている。〈7月に「浦島みつお」と改名するも仕事が減り、今月15日に元の芸名に戻した〉(朝日新聞・2009年10月26日) 改名が上手くいかずとも、せんだはめげることなく、「ウケない金ない仕事がない」「ゴキブリ並みの生命力」と自虐で笑いをかっさらった。『アッコのいいかげんに1000回』で「第2黄金期を目指している」と宣言するも、なぜか爆笑を呼んだせんだ。ゾンビのごとく甦るか。●文/岡野誠:ライター・芸能研究家。研究分野は松木安太郎、生島ヒロシなど。本人へのインタビューや関係者への取材、膨大な資料の緻密な読解で構成する著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の3刷が決定。同書では、1980年代から1990年代にかけてのテレビ史、芸能史、アイドル史も解き明かしている。
2019.07.02 16:00
NEWSポストセブン
泰葉 離婚から10年、元夫・小朝のDVを告発した背景とは
泰葉 離婚から10年、元夫・小朝のDVを告発した背景とは
 6月2日に行なわれた会見の翌日、新聞各紙は「泰葉が元夫と大物歌手を提訴する意向」とだけ短く報じた。だが、涙あり、笑いあり、そしてなぜか歌ありの会見のヘビーな内容は黙殺されたままだ。メディアが“封印”した衝撃の告白の中身。そして、なぜ泰葉はいま、口を開いたのか──。「2006年(実際には2007年)11月13日、この帝国ホテル『桜の間』で、金屏風会見を行いました」。和服姿の泰葉(56才)は立ったまま、どこか遠くを見るような目でこう切り出した。「それはそれは苦しい苦しい戦いでした。自分にフタをしていた。自分の傷をさらけ出すことがどれだけ苦しいことか、よくわかりました」 次第に目から涙があふれる。「今回、提訴するのはおふたりです。春風亭小朝さま、そして和田アキ子さまです」 提訴という言葉に、会場に緊張感が走る。6月2日11時半。そうして始まった、泰葉の『音楽活動状況並びに一連の告発に関するご報告』会見は、80分にも及んだ──。 泰葉が「金屏風会見」と呼んだのは、元夫・小朝(62才)との離婚会見のこと。昭和の爆笑王・初代林家三平の娘と天才落語家という風変わりな夫婦は、離婚報告にもかかわらず金屏風の前に立った。小朝の「離婚届がラブレター」発言、そしてふたりが握手を交わしたことなど、この会見は今なお語り種だ。 当時、泰葉は「円満離婚」と言っていたものの、ブログで小朝のことを“金髪豚野郎”と罵り、再度注目の的に。2013年に歌手活動再開を発表、2016年には「あの時は心労が重なって双極性障害を発症していた」と振り返っている。 そして今年4月24日、泰葉は自身のブログに突如、こう綴った。《私、泰葉事 海老名泰葉は 元夫、春風亭小朝事 花岡宏行を 20年にわたる 暴行 Domestic violence いじめ Power hrunsement 異常性行為 Sexcial hrunsement 全てを網羅した 虐待をここに 告発します》(原文ママ) その後もブログでの“虐待”告発は続き、ついに今回の「提訴」会見に至ったのである。和田のことは「明らかに営業妨害です」と主張。具体的には和田がラジオ番組などで「どうしたの」など泰葉を否定するような言葉を発言したり、テレビ局で和田にあいさつした際、「なんであんた、そんな肌出した洋服着てるの」とスタッフらの前で言われたことを挙げた。また、小朝に関しては、驚くようなエピソードが次々に明かされた。◆今年4月にやっとDVだと…「まず、度重なる暴力です。いちばんキツかったのは、亡くなった三木助師匠と仲よくなったのを嫉妬されて、布団でぐるぐる巻きにされて2階から突き落とされました」(以下、「」内はすべて泰葉の会見での発言) 三木助師匠とは桂三木助さん(享年43)のことだ。甘いルックスと噺家としての実力で、「落語界のシティーボーイ」と呼ばれた三木助さんは、2001年に自ら命を絶った。うつ病が原因だと報じられたが、泰葉は《小朝のいじめによるもの》とブログに綴っている。 泰葉は小朝からの暴力についてこう告白を続けた。「私はほとんど運転手代わりでしたが、運転をしていると後ろの席から席を足蹴にされ、命の危険を感じました」「(小朝が)『三匹が斬る』というドラマで、木刀を持って殺陣の練習を始めた時は、(運転中の)私の後頭部を叩き、(私が)『殴ってもいいから、車を止めてからにしてくれ』とお願いしましたが、ダメだの一言。混雑している六本木の交差点で木刀で殴られた時は本当に大変でした。また、高速道路でそれが始まった時は、本当に命が危ないと思いました」 記者たちが騒然となる中で、さらなる過激な“虐待”の内容が明らかになってゆく。「逆さ吊りにされ、『そんなにお腹が空いているならこれを食べろ』と言われて、吊るされたまま食パンを喉につめこまれ、息が止まりました。食パンっていうのは、水がないと吐き出してもカサカサが喉から取れない」「みその配合が気に入らないと熱いみそ汁をかけられたり、『おれを誰だと思ってるんだ』と言って包丁を振り回され、10針か12針を縫ったこともあります」 2007年の離婚当時、レポーターの故・梨元勝氏は「DVでは?」と指摘していたそう。「『DV』という言葉すら知らなかったんです。私はてっきり『AV』と間違えちゃいまして、それはないなあと」と苦笑いした。 また、会見の途中でPTSD(心的外傷後ストレス障害)の診断書の内容を読み上げる一幕もあった。「PTSDは大変深刻な鬱状態になるんです。この4~5年、本当に死にたい、死にたい地獄で、毎日、どこから飛び降りようか、この薬を何錠のんだら死ねるのか、そんな毎日が続いていました」 一般的に子供の頃に受けた虐待の影響が大人になってから現れるケースは少なくない。 あまりの異常さに、記者から「性的嗜好なのでは?」との質問が飛ぶと、泰葉はためらいがちに、「プロのSMのかたを呼んで、3人でそういう行為に…至ったということも何回かあります」と仰天のエピソードも明かした。 こうした暴力や虐待行為は婚約中から始まっていたという。これほどまでに異常な結婚生活をなぜ続けていたのか。「私の父が亡くなって、家が大黒柱を失ってとても大変な時期だった。私の音楽活動も“自分の音楽とは違うな”と思い悩んでいた頃に出会ってしまったので…」 と苦しげな表情を浮かべたが、最後は用意されたグランドピアノを弾きながら『スマイル』を歌い上げた。会見の内容について、小朝サイドに取材を申し込むも、「その件につきましてはこちらからお答えすることはございません」の一言。 ふたりの関係について真偽のほどはわからないが、離婚から10年の時がたった今、なぜこのタイミングで会見を開いたのか。泰葉はそもそも一連の小朝の行動が「DV」にあたることを今年4月になるまで気づくことができなかったと告白している。「4月下旬、知人に元配偶者からの暴力行為について話したところ、それが犯罪行為だとわかりました。それをきっかけに、曖昧だった暴力の記憶が鮮明になりました」 しかし、海老名家を知る関係者は別の見方もできるのでは、と言う。「弟である三平の妻、国分佐智子さんに待望の男の子が昨年11月に生まれて以前のように泰葉さんを献身的にサポートすることができなくなってしまった。また、母の香葉子さんも高齢かつ体の調子が万全とはいえない状態。そんな中で泰葉さんが家族との距離を広げていったことも会見を開いた理由なのだと思います」「家族とも一切の連絡を絶ちました。今いちばんやりたいのは、甥っ子に会うこと。まだ一度も会ってないんです」 泰葉はこう言って涙で声をつまらせた。※女性セブン2017年6月22日号
2017.06.09 16:00
女性セブン
『バイキング』のSP版でも芸能記者がタレントとバトル(公式HPより)
「芸能人VS記者」番組急増 ワイドショーの芸能ネタ変化も影響
 芸能記者とタレントがトークバトルを繰り広げる番組が増えている。 特に昨年末は多かった。12月28日の『余談大賞2016』(TBS系)では、サンミュージック所属のお笑いコンビ・メイプル超合金の安藤なつが、『週刊文春』の現役エース記者と初対面。 同じく28日には昼の番組『バイキング』(フジテレビ系)がゴールデンに初進出。芸能人が、記者たちに「疑惑があるならなんでも書いていいのか」「取材して良心が痛まないのか」などと詰め寄る場面も。こうした番組は年明けも続いた。1月8日『あるある議事堂SP』(テレビ朝日系)では、スキャンダルをすっぱ抜かれたタレントが、それをスクープした記者本人から撮影したときの裏側を明かされて驚いていた。 もちろん今までこのような番組がなかったわけではない。2000年前後も『壮絶バトル!花の芸能界』(日本テレビ系)や『芸能界激突デスマッチ ワイドショーの主役』(テレビ朝日系)といったワイドショー系の特番が何度も放送、いずれもタレントと記者との対決が話題を呼んでいた。 しかし、当時スクープを提供していたのは梨元勝氏(2010年死去)や井上公造氏、城下尊之氏、石川敏男氏といったワイドショーのレポーターがメイン。現在の芸能ワイドショー特番では、週刊誌やスポーツ紙の記者が多いのが特徴だ。 その背景としてはやはり、ここ最近の『週刊文春』を始めとする雑誌メディアの報道合戦が大きいだろう。スクープを連発する記者たちがどんな人間なのか、何を思っているのか、裏方を表舞台に出して聞き出そうという狙いからオファーが絶えないのだ。 また、プロフェッショナルと芸能人と戦わせるという形式はトークバトルとしては定石だ。例えば『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)も、もともとは2000年に放送された『絶対に訴えてやるぞ!!芸能人VS弁護士軍団・大爆笑!法律バトル』というスペシャル番組が原型となっている。またこれまでも「VS占い師軍団」、「VS美容家軍団」、「VS結婚カウンセラー軍団」など、さまざまな組み合わせがあったが、「VS芸能記者」もその延長線上にある。 そうしたトークバトルは、パッケージさえ作っておけばシリーズ化も可能。また予算の多くは出演者のギャランティーだけで済むのでコストパフォーマンスが良い。 さて、先に述べたとおり、最近の芸能記者とタレントのトークバトルには芸能レポーターがあまり出演していない傾向があるが、それはワイドショーの芸能コーナーの均一化と無関係ではない。 かつてのワイドショーでは番組ごとに専属のレポーターを雇っていたが、制作費削減の今ではそれが難しくなっており、自然と、独自のネタを入手することもできない状態になっている。また個人情報保護法(2005年完全施行)によるプライバシー重視の風潮や、新たに叫ばれるようになったコンプライアンスという名のもと、過度な取材を自主規制するようになり、相対的にスポーツ紙や雑誌の情報を紹介する機会が増えている。 熾烈なスクープ合戦を繰り広げていた当時は、芸能プロダクションに対しても強気の姿勢を見せていたが、有力芸能プロダクションがドラマからバラエティーまでテレビメディアに大きな影響力を持っている今、ワイドショーでもそうしたプロダクションとも平和的につき合うようになり、軋轢を生むような報道はほとんどなくなった。 さらにこれまでは記者会見を通して発表されていた結婚などのニュースも、今や所属事務所からのFAX1枚で通達されるか、もしくはタレント本人のTwitterやブログなどで知らされるのみ。芸能レポーターの本来の役目はなくなり、現在、スタジオで、芸能情報をわかりやすく解説する“翻訳者”になってしまっているのだ。 そうした流れのなかで、バラエティーを制作する側が、芸能レポーターに出演してもらうより“生”の情報に日頃から接している週刊誌やスポーツ紙の記者に出てもらったほうが面白い番組ができる、と考えるのは自然だろう。もちろん、現役記者が出るからといって、芸能人のスキャンダルを徹底追及するような形には制作サイドもしないのだが、最前線の記者から明かされるスクープの裏側や芸能人の意外な一面、それにリアクションを見せる取材対象者という構図は、独自のスクープがなくてもバラエティーの“ショー”としては十二分に視聴者を惹きつけることができる。 ワイドショーで扱う芸能情報の“弱体化”が、結果的に新たなバラエティーを生み出すキッカケだとしたら皮肉なことだが、これだけ量産が続いているということは、テレビ局にとっては有力コンテンツのひとつであることは間違いない。「芸能人VS芸能記者」という図式の番組はこれからも増えていきそうだ。(芸能ライター・飯山みつる)
2017.01.17 16:00
NEWSポストセブン
梨元麻里奈 亡き父・梨元勝さんへの思いを語る
梨元麻里奈 亡き父・梨元勝さんへの思いを語る
 6月の第3日曜日。父の日をあなたはどんな気持ちで迎えますか? 11名が親への思いを語った書籍『親のおくり方』(ポプラ社刊)の著者である根岸康雄氏が、芸能レポーターの草分け的存在だった故・梨元勝さん(享年65)の娘である梨元麻里奈さん(36才)に、父への思いを聞いた。 * * * 芸能レポーター、梨元勝。父が亡くなって6年の歳月が過ぎました。幼い私に「麻里奈、こういう男に騙されちゃいけないよ」と当時、プレイボーイと名を馳せた火野正平さんや羽賀研二さんの写真を見せ、諭すように語っていたという父。 一方で、自らの父親を戦争で亡くし、祖父に育てられた父は、家庭での“お父さん”の振る舞いがわからなかったのでは、と母は言います。女の子は父親との間に溝を作る時期があるものですが、私の場合はそれが長かったんです。中学時代は父との関係が最悪でした。一緒の場に座るのも嫌でした。そんな私に対して、父は「なんだ、その態度は!」みたいな接し方でした。当時、父が楽しみにしていた冷蔵庫の中のイクラを私が食べちゃったときも、咎められ、私はふて腐れた態度をとったと思います。父が怒って私に箸を投げ、私が部屋に駆け込むと、追ってきた父は部屋のドアを思い切り蹴りました。それで父は足の指を複雑骨折してしまった。「イクラ事件」は思春期の親子関係を象徴する出来事でした。「あなたの性格はお父さんとそっくり」。それも母の言葉です。父は頑固で、要領よくできないところがありました。私も似ていて、けんかになるとお互いに後に引けなくなってしまう。 成人して父の個人事務所に所属し、芸能レポーターの仕事をつぶさに見ると、父はこの仕事が好きだし、向いている。天職を得て、恵まれた人生だなと思えるようになりました。 でも、父との会話があまりなかったのは、けんかになるのを避けたかったからです。根は単純な父なので、言い合いになりそうなときは私が謝ればいいという感じでした。 2010年6月、末期がんを告知されてからは、病室で注文した宅配ピザを母と3人で食べたり、母の誕生日には、父と企画して、病室でサプライズパーティーをしたりしました。「本当に家族団らんだね」 それは2か月半ほどの闘病生活の中で、父がつぶやいた言葉です。父と暮らした時間はたくさんあったのに、家族が本当に絆を感じたのが病室だったことに、私は切なさを感じました。でも、短くてもそんな時を持てたことに、今は感謝しています。 生前、父と親交のある何人かのかたがたから、「お嬢さんの話をすると顔が全然、違ったね」という話を聞きました。 私のことを世界でいちばん愛してくれたのは、お父さんだったのかもしれない…。私はそんな実感を抱いています。結婚の報告ができないのも、父ぐらい私を愛してくれる人が見つからないからかもしれません。月日が経っても、父がいない寂しさは募るばかりです。夢の中に出てくる若くてハンサムな父は優しく私を見つめているだけですが、きっと向こうの世界で、私のことを心配しているだろうな。 父がそうだったように、生き甲斐を持って取り組める仕事に就き、早く「私はもう大丈夫だから」と、夢の中の父に語れるようにならなければ…。私は今、そんな想いを強く抱いています。【プロフィール】梨元麻里奈/1980年、東京生まれ。タレント、芸能コメンテーター。1998年にテレビデビューし、バラエティー番組などに出演。2010年11月、亡き父の跡を継いで「オフィス梨元」の代表取締役社長に。芸能を中心にレポートやコラムを幅広く執筆。※女性セブン2016年6月30日号
2016.06.16 16:00
女性セブン
芸能コーナー減っている理由 リポーター不足で現場は大変!?
芸能コーナー減っている理由 リポーター不足で現場は大変!?
 放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、キー局のワイドショーで芸能コーナーが減っている理由を解き明かす。 * * *「いまの芸能リポーターは、リポーターではなくサポーターになってしまっている」 とは、故・梨元勝さんが晩年しきりにおっしゃっていたことである。「恐縮です」というおなじみのフレーズを駆使しながら、現場で直撃し続けていた梨元さんにとって、時に芸能プロダクションとベッタリであるかのようなリポーターたちは、「サポーター」として見えたのだろう。 だが、昔のように玄関のチャイムをピンポン、ピンポン鳴らし続けたり、芸能人に対し罵声を浴びせたりする“手法”がやれなくなった昨今。芸能リポーターさんたちは、芸能プロダクションと密に連絡をとりながら、「〇〇さん(=リポーター)ならば話す」という状況にいかにもっていくかが新しい処世術になっているような気がする。 週刊誌やスポーツ紙がそうであるように、ちょっと過激な記事をオンエアしただけで訴えられる時代。何件も係争を抱えていることは通常業務に支障をきたすし、昔なら負けなかった案件が、いまではメディア側に不利な結果となるのが昨今の傾向である。 加えて、テレビのワイドショーに芸能コーナーが少なくなってきた。司会者やコメンテーターに大手芸能プロダクションに所属している者が多すぎて、テレビ局側が彼らに遠慮して、芸能スキャンダルを扱わないようになってしまったのである。 チーフプロデューサーや総合演出担当が「芸能嫌い」であるケースもある。確かに、芸能をきっちり扱おうと思ったら、しっかりした芸能デスクを2~3人、そして優秀な芸能リポーターも複数人、置かないといけないし、毎日、午前と午後にどこかしらで行われているイベントや会見に出すカメラクルーも確保しなければならない。いまは予算の関係で、これができないのも現状だ。 数字がとれないワケではないのである。たとえば私が毎週出演している『ドデスカ!』(メ~テレ)は、いまでも2時間番組のなかに、スポーツ紙の芸能面を紹介するコーナー、在京局が取材した芸能モノを配信してもらって作るVTRコーナー、独自の切り口で行うコーナー…と、毎日3枠の芸能コーナーがあり、視聴率の分計はどれも山になっている。視聴者が芸能に興味がなくなったワケでもないのだ。 在京局のワイドショーには芸能コーナーが少なく、地方局のワイドショーには芸能コーナーがタップリ…となれば、おのずと芸能リポーターたちは地方局の番組に生出演する機会が多くなる。 名古屋、大阪、福岡などの準キー局で、独自の生ワイド番組を制作している局では、おなじみの芸能リポーターたちが自分のコーナーを持っていて、独自の切り口や目線で旬な芸能ネタについて解説している。もちろん、そこでしか聴けないような大ネタもあれば裏ネタもあり、最近はネットの普及もあり、そこで発信された芸能ニュースがスポーツ紙のWEBサイトにまずあがり、翌日、紙面に掲載される…というケースも多々あるのだ。 その芸能リポーターたちが、系列局以外の局でレギュラーを持つのも、ここ数年の傾向だ。たとえばテレビ朝日の契約であっても、関西テレビ(フジテレビ系列)、RKB毎日放送(TBS系列)のワイドショーに出演している芸能リポーターがいる。昔なら考えられないことだが、在京局のワイドショーに芸能コーナーがないので、「なのに、縛ることはできない」「どうぞ(他系列でも)出てください」ということらしい。芸能リポーターさんたちにも“生活”がある。それは仕方がないことなのかもしれない。 しかし、それで困るのは、東京の現場である。昨今、かなりの大物芸能人が登壇するイベントや会見の“囲み”でさえ、芸能リポーターが一人もいない…という光景が見られる。 また、突発的な大ネタが飛び込んで来たとしても、昔のように芸能リポーターが長時間、張り込みをしたり、直撃をしたり…という映像も全くといっていいほど見られなくなった。有名芸能リポーターたちはみな、地方局にレギュラー出演しているからなのである。 というワケで、現場は本当に寂しいことになっている。華やかでネームバリューもあるスターが中央に立っているのに、マイクを持って囲んでいるのは、とてもではないがオシャレとはいえない男性たちばかり。彼らは、芸能コーナーの現場を任されたディレクターたちなのである。 なかには、そういう現場が多すぎて、まるで芸能リポーターのようにトークが上手になった人もいれば、芸能人にとっても視聴者にとっても顔なじみになっている人もいたりする。でも、大半は地味だし、これといった気の利いた質問をするでもなく、全く使いどころがない=盛り上がりに欠ける仕上がりなのだ。これでは、ワイドショーにおいて長尺で使われるハズがない。 そんな状態であるから、芸能リポーターを目指す若い人も皆無で、私が知る限り、芸能を専門にやっているいちばんの若手は、かつて現場で怖い物知らずの質問を連発し、“爆弾娘”と呼ばれていた菊池真由子さん、来年40才だ。 実は『ZIP!』(日本テレビ系)が始まってからというもの、たとえばジャニーズのアーティストが登壇する場合などに、日本テレビの女子アナや出演するモデル風タレントが来てマイクを持つ場合もある。しかし、そういうときは、芸能リポーター界の“タッキー&翼”、駒井千佳子さんと山崎寛代さんという“ジャニ担”の独壇場であり、声を発するのはこの二人だけ…という状態。 しかも、件の女子アナやモデル風タレントが「将来、芸能を専門にやっていきたい」などとは思っているハズもなく、彼女たちが芸能リポーターとして育っていくことは全く考えられないのである。 晩年、梨元勝さんがお嘆きになった「芸能サポーター」であっても、この際いいと思う。どこかに芸能リポーター志望の若者はいないだろうか。そうでないと、芸能の“現場”は終わってしまいかねない…。
2015.05.02 07:00
NEWSポストセブン
レポーター梨元勝氏 最後の言葉は「そっとね、ゆっくりね」
レポーター梨元勝氏 最後の言葉は「そっとね、ゆっくりね」
 芸能レポーターの草分け的な存在で知られた梨元勝さん。芸能人の赤裸々な情報を伝えつつも、人間味溢れる優しい人柄から周囲から愛される存在だった。2010年65才で肺がんで亡くなるまで、家族とはどう過ごしたのか。娘の梨本麻里奈さん(34才)が父の最期の時を語る。 * * *「海に行きたいな」 夏になると、父はそう話していました。実は、友人と共同名義でクルーザーを所有するほど海が好きでした。「早く治って海に行って船に乗ろうね」 そんな話をしている間にも、8月初旬に行った2回目の抗がん剤の影響で、体力がガクッと落ちてしまった。 8月20日のことでした。「原稿の仕事を全部やめたいから、事務所の人に連絡してほしいんだ」 最後までベッドの上で書いていた新聞の仕事でした。「えっ、やめちゃうの!?」「いいんだ、もう書けないんだよ」 寂しい沈黙のあと、「麻里奈、お水が飲みたい」、私は水差しを口元に持ってお水を飲ませてあげました。そのとき、ふと私の顔を見つめる父の視線を感じました。水を飲むと父は、背中をさすってほしいと言うのです。「麻里奈に背中をさすってもらって幸せだなぁ。ありがとう、ありがとう」 父の私を見つめる視線も、私へのありがとうの言葉も、共に生きた30年間の思いがこもっていたのでしょうか。「また明日来るからね」 そう言い、握手をした手に力強さはありませんでしたが、それが最期の別れになってしまうとは…。「結婚した当初から苦労をかけたね。みんなでいろいろ旅行に行ったよね。麻里奈とスキーにも行った。ハワイを旅行したときは楽しかったよ」 その夜、父と母はいろんなことを話したそうです。「怖いんだ…」「大丈夫よ、ずっとそばにいるからね」「ありがとう、ありがとうね」 その後、トイレをすませ2人の看護師さんに、ベッドに上げてもらうとき、「そっとね、ゆっくりね」 それが、最後の言葉だったそうです。 ※女性セブン2015年2月12日号
2015.02.01 16:00
女性セブン
梨元麻里奈 父・梨元勝との病室での最後の一家団欒振り返る
梨元麻里奈 父・梨元勝との病室での最後の一家団欒振り返る
 芸能レポーターの草分け的な存在だった梨元勝さん。時として不都合な真実を明かすことがありながらも、謙虚で人間味溢れる人柄から多くの芸能人から愛される希有な存在だった。だがその一方で、娘の梨元麻里奈さん(34才)とは長く疎遠な関係だったという。 2010年に勝さんの肺がんが見つかり、65才で亡くなるまで、娘としてどんな言葉を交わしたのか。麻里奈さんが、父との最後の団欒を振り返る。 * * * 父の体に異変が起きたのは2010年4月末。咳が止まらず病院を訪れると、肺に白い影が見つかり肺炎と診断され入院しましたが、病状が改善しない。再入院して肺の組織検査をしたのですが、「残念ですが、肺がんです」 それが6月2日でした。先生たちからそう告げられたと、母から沈んだ声の電話をもらって、私は泣き崩れました。でも、泣いてばかりはいられません。「もしぼくががんになっても教えないでほしい」 若い時から母にそう告げていた父でした。それが病室で母といるときに告知をされ、がんがステージ4であることも、主治医の先生から宣告されたのです。母は父の精神状態を心配しましたが、父は意外なほど明るかった。「大丈夫だよ、すぐに仕事に復帰できるよ」 最悪の状態のステージ4と宣言されても、がんの進行のステージは10まであると父は思っていたみたいです。完治は無理でもがんと共存していけるとの思いは抱いていたのでしょう。 人のことを言ったり書いたりしてきたのだから、病気になった自分をすべて報告すると、抗がん剤治療も自分が運営するウェブサイトで逐一伝えたのは、父らしいレポーター魂だと感じました。「麻里奈、お父さんの代わりに番組に出演してくれないか」 体力的に地方に行くのが難しくなった父に代わり、福岡と愛知のテレビ局の番組に出演し、父から聞き取った話を報告する。私はそれまで頑なに断っていたレポーターの仕事を躊躇なく引き受けました。父が後ろにいるので、怖さはありません。「いいね、バッチリだよ、完璧だ!」 抗がん剤の影響で髪の毛が抜けた父は、病室のパソコンで、私が出演した番組の録画を見ると、満面の笑みでただ私を褒めるばかりでした。私が代わりに行ってくれたことが嬉しくてたまらなかったんでしょうね。父をサポートしているという充実感はありましたが、今にして思えばもっと厳しい言葉でダメ出しをしてほしかった。 病室での生活は私たち家族にとってかけがえのない期間でした。それまで家族がそろって夕食を食べることもあまりなかったから、病室で宅配のピザを家族3人で食べたことは貴重な想い出です。 抗がん剤の副作用で味覚がおかしくなり、肉が紙を食べてるように感じるとか砂のようだと言うので、自宅から病室にいろいろと調味料を持ち込みました。不思議とチリソースが「おいしい、おいしい」と言うので、その後は病院食のお粥にもかけました。 7月11日は、母の64回目の誕生日でした。「お母さんを驚かせよう」と、私がサプライズのケーキを病室に用意し、父と2人でハッピーバースデーを歌い、父はいつものように原稿用紙に書いた《お誕生日おめでとう!》という手紙を母に手渡しました。「本当に一家団らんだね」 父の2か月半ほどの闘病生活で、母がつぶやいた言葉です。家族がいちばん密になれた、気持ちが通じ合えた、強い絆を感じ合えたと私も感じています。 でもね、お母さん、それまでお父さんと暮らした時間はいっぱいあったのに、もっとお父さんと話をすることも、もっともっとお父さんに、優しくしてあげることもできたのに、家族が本当に密になれたと感じられた場所が、病室だったというのは、あまりにも切ない…。※女性セブン2015年2月12日号
2015.01.31 07:00
女性セブン
梨元勝の娘・麻里奈 「あの頃の私は父に謝りたくなかった」
梨元勝の娘・麻里奈 「あの頃の私は父に謝りたくなかった」
 芸能レポーターの草分け的な存在だった故・梨元勝さん(享年65)。時として不都合な真実を明かすことがありながらも、謙虚で人間味溢れる人柄から多くの芸能人から愛される希有な存在だった。だがその一方で、娘の麻里奈さん(34才)とは長く疎遠な関係だったという。麻里奈さんが、父・梨元勝との関係を告白する。 * * * 私は芸能レポーター梨元勝の一人娘として、1980 年に生まれました。私の小学校の時には、どんなに忙しくても父は参観日や運動会に来てくれました。「麻里奈、こういう男には騙されちゃいけないよ」 まだ幼い私に、当時プレイボーイといわれていた火野正平さんや、羽賀研二さんの写真を見せて、私に諭すように語っていたそうです。 でも、女の子は成長の過程で一時期、父親に溝を作るもの。私の場合は小学3年生くらいから反抗期が始まりました。特に、面と向かって何か言うことはありませんでしたが、なんとなく父を避けるようになったんです。 夜遅く父が家に帰ってきて、“ピンポーン”と鳴ると、私は自分の部屋に戻ってパタンとドアを閉める。ふれ合いたくない。触りたくない。そばに座るのも嫌でした。 父もそんな私にどう接したていいかわからなかったんでしょう。「お小遣いあげるから、ご飯食べに行こう」と言われて、私もそれなら行こうと思ったり、それでも行かないと言ったり…。 私と母がけんかをすると、父がいつも母の側につくのも嫌でしたね。「お父さんは戦争で自分の父親を早くに亡くしているから、家庭の中でお父さんという存在が、どういうものかわからなかったんじゃないかしら」 母の言葉も今でこそ理解できますが、中学に入る頃には父との関係は最悪でした。「最近、学校はどうだい」とか、父からささいなことを話しかけられても、私はどう応えていいのかわからず、「べつに…」みたいなつっけんどんな態度になってしまう。仕事なら「恐縮です」と下手に出て、相手との距離感を縮めていく父ですが、自分の娘となると事情は違います。「なんだ、その態度は!」 そうやっていつもけんかが始まってしまうんです。 父が怒って投げつけたクッションを避けようとして、ガラスのテーブルに額をぶつけてしまい、血がバーッと出たこともありました。その時、母は手当てをしてくれましたが、父は困惑したように呆然とするばかりでした。「イクラ事件」というのもありました。父が大事にとっておいた冷蔵庫の中のイクラを私が食べてしまい、仕事から帰ってきた父が「あっ、イクラがない!」と騒ぎ出したんです。素直に謝ればよかったんでしょうけど、この時もふて腐れた態度をとったんだと思います。怒った父は私に箸を投げつけて、私は部屋に駆け込みドアをバーンと閉める。そして追っかけてきた父が私の部屋のドアを思い切り蹴って…それで父は足の指を複雑骨折しちゃったんです。 私に非があると思えたなら「ごめんなさい」が言えたのでしょうけど、父は仕事のストレスを私にぶつけているんだ、という思いが私にはありました。あの頃の私は、父に謝るなんて絶対にしたくありませんでした。※女性セブン2015年2月12日号
2015.01.30 11:00
女性セブン
抗がん剤使わぬがいいとの説 梨元氏は使用後2か月で亡くなる
抗がん剤使わぬがいいとの説 梨元氏は使用後2か月で亡くなる
 厚生労働省の政策レポートによると、1981年以降、がんは日本人の死因の第1位で、現在では年間30万人以上ががんで亡くなっている。そうしたなか、『医者に殺されない47の心得』の著者で慶應義塾大学病院放射線科・近藤誠医師は独自の理論を展開してきた。 抗がん剤は、そもそもがん細胞を殺すことを目的に作られた猛毒であると近藤医師は主張する。問題なのは、がん細胞と正常細胞はその構造、機能がほとんど同じであるため、がん細胞だけを殺すのは不可能だということ。その結果、呼吸器、消化器、泌尿器、中枢神経など生きるうえで大切な臓器の機能も低下してしまう。患者がすぐに気づかなくても水面下で症状は進み、回数を重ねると突然心不全や呼吸困難に陥ることもある。 さらに抗がん剤の効き目には個人差があり、一度の使用で重要臓器の機能が落ちる可能性も。抗がん剤が効くといっても単に一時的にがんを縮小させるだけで、しこりはやがて必ず大きくなる。ゆえに延命効果も期待できない、と近藤医師は語る。「それでも抗がん剤を使うのは、止めると多くの病院が経営困難に陥るから。検診や手術も含めて、がんは病院の大きな収益源。普通に病院に歩いて行けたのに、『余命3か月だが、抗がん剤を使えば1年』と治療をセットにして勧められたら、逃げ帰ってください」 また、何かしなければ患者や家族に責められるように感じ、抗がん剤さえやれば安心と考える医師もいる。しかしその「善意」が、結果的に患者を苦しめている。 2010年4月、芸能レポーターの梨元勝さん(享年65)は空咳が出るため検査。右の肺にがんが見つかった。病院の医師は抗がん剤を勧めた。そこで6月、7月に抗がん剤治療を実施。心臓に持病のあった梨元さんはこの時点でかなり衰弱する。8月、3回目の抗がん剤を服用すると心不全により死亡。検査前は元気だったが抗がん剤使用後、わずか2か月で亡くなった。※女性セブン2014年3月6日号
2014.02.24 07:00
女性セブン
散骨した深浦加奈子さん父「海に行けば加奈子に会える」と談
散骨した深浦加奈子さん父「海に行けば加奈子に会える」と談
 高倉健の6年ぶりの主演映画『あなたへ』(全国東宝系)が、25日に封切られる。映画の見せ場は、亡き妻の遺骨を海に撒いて「散骨」するシーン。死ねばお墓で眠り、お彼岸の墓参りを常とする日本人でも、「散骨の是非」を考えさせられる。現在はどうなっているのか。 海上散骨をした遺族のほとんどが、「散骨という選択」に満足している。父親の遺骨を散骨した神戸市内の60代の男性はこう語る。「オヤジはクルーザーを持つほど海が好きな男でした。口癖は“死後も自分で決めさせてくれ。戒名もいらないし、オレの船で散骨してくれ”でした。やはり悩みましたが、私の子供は1人だけで、孫の代まで墓の面倒を見られるかわからない。そこで思い切って墓を造らず、お寺に永代供養を頼み、一部を散骨しました。 親戚からは非難されましたが、今は死後も自己決定する時代ではないかと思いますし、オヤジの遺志を守ったという誇りがある。年に1度、命日には家族で海に手を合わせています」 それは有名人でも同じだ。一昨年亡くなった芸能レポーター・梨元勝氏(享年65)は、昨年8月、妻・玲子さんが東京湾で散骨した。玲子さんの話。「散骨は家族の想いで行ないました。こんなに早く亡くなるとは思っておらず、散骨の遺志は聞いていませんでした。でも、芸能レポーター仲間でクルーザーを共同所有するほど海が好きだったんです。亡くなる前日も『(元気になったら)海に行きたいね』と話していたことが、ずっと記憶に残っていました。それでお墓もありますが一部を散骨したいと考えました。 レインボーブリッジを観ながら散骨場所まで行き、お骨を海に撒くと、スッと海に消えていくのが見えて感激しました。主人が喜んで水面から顔を出すんじゃないかと思ったほどです」 また、女優・深浦加奈子さん(享年48)も、両親に散骨された1人だ。父・栄助さんが語る。「我が家では40年ほど前から、夏に一家で下田の海に行くのが恒例でした。ただ4年前に散骨をしてからは、その意味が変わった。家内などは“加奈子に会いに行く”というんです。散骨したのは逗子ですが、海は繋がっているから、海に行けば加奈子に会える。そういう気持ちになりました」※週刊ポスト2012年8月31日号
2012.08.25 07:00
週刊ポスト

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