日本人がマナーに厳しいのはつとに知られているが、あまりにも押しつけがましい注意喚起や規制にうんざりさせられることも多い。
例えば電車やバスなど公共交通機関内でのアナウンス。「車内では大声を出さないで」「足を前に投げ出さないで」「床に座り込まないで」「呼んだ新聞・雑誌は網棚に載せないで」……。とにかく繰り返し呼び掛けられる。
「特に地下鉄は朝から大音量でやられるから、たまらないです。どこの世界だってマナーの悪い人はいるし、よい人間もいる。こうもやかましく言われると、マナーを守っている人の自主性まで疑われているようで、不快な気分になります」(40代会社員)
近ごろネットを中心に論争を巻き起こした、電車内でのベビーカー使用を巡るマナーについても然り。
事態を重くみた国交省は、混雑時にベビーカーを折り畳む注意喚起のアナウンスだけでは飽き足らず、ベビーカーの優先に配慮を求めるマークの制定など、統一ルールの検討に乗り出した。
「乗客みんなが互いを気遣っていれば、こんな論争は起こらないはず。ルールを作って強制したって、わだかまりは消えないと思います」(ベビーカーを利用する30代主婦)
相互扶助の精神さえ持てなくなってしまった時代。先日亡くなった作家で精神科医のなだいなだ氏は、日本人が持つ「常識」が歪んでしまったとする独自の哲学を持っていた。
生前、雑誌のインタビューで「電車の優先席で寝たフリをする若者をどう思うか?」と聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
「若者の中にも席を譲ってくれる人はいるし、『オレたちだって疲れているんだ。目の前に立っている老人は元気そうだし、そもそもこんな時間に電車に乗っているほうがおかしい』という言い分も分かる。それはモラルがないなんて説教するようなことではなく、その程度のモラルは誰しも心の奥底に持っていますよ。それよりも常識が歪んで自由な考え方ができない社会構造が問題なのです」
なだ氏のいう「常識」とは、日本語訳の基になった英語の「コモンセンス(共通の判断力)」の意。つまり、知識の集約だと勘違いして判断力に重点を置かないから、往々にして偏見を招いてしまう――と説いたのだ。
その論に触れれば、電車内でのマナー啓発、エレベーター内での私語厳禁の貼り紙、皇居ランナーに対する「歩行者に気を付けて」の注意喚起……、すべてが一方的な押し付けで、有無を言わさぬ迷惑な風潮にみえてくる。
夏本番を前に、全国各地の海水浴場でもマナー厳守の規制が待ち構えている。
神戸市須磨区の海岸は、ビーチでたばこを吸ったら「過料1000円」を徴収。湘南・江の島の一部海水浴場では、にぎやかな海の家の音楽禁止を検討している。
「広大な海を前にしての一服が至福のひと時だったのに」「吸い殻入れさえ設置すればマナー違反者も減るのでは?」「開放感溢れる海に行って音楽のひとつも流れていないのは寂しい」と異論は相次ぐが、特に禁煙ファシズムが横行するたばこ規制については、喫煙者の声を理解する“心の余裕”などまったくない。
なだ氏は、皮肉交じりにこんなことも話していた。
「電車の優先席は、誰かが座ると『あなたの年齢はいくつですか?』としゃべる機械を埋め込めばいいじゃないですか」
いま一度、なだ氏が遺した言葉を噛みしめ、「常識とは何だろう?」と自問自答してみたい。そうすれば、いちいちマナーやルールでがんじがらめにする社会の矛盾も浮き彫りになってくるはずだ。