犠牲者も相当に出たという。軍部は砂子川一家の労を讃え、陸軍の山形の印を代紋として使用することを許可した。そのうえに陸軍は、馬の糧秣と寝藁を独占的に納入する権利まで与えている。
当時のヤクザは、炭鉱や港湾などで働きつつ、博徒として賭場からあがりを得ていたが、戦時色が濃くなると賭場も開けなくなる。そこで、軍属として戦地に赴き兵站や輸送、施設建設などを担うようになった。日本軍が進駐する土地に拠点を築き、利権に食い込む者も多かったのだ。
兵士の慰問もヤクザが担った。当時は浪曲が大人気で、興行を仕切っていたのはヤクザである。18歳で興行師として独立し、顔役に登り詰めていた永田貞雄(二代目山口組・山口登組長の義兄弟)は、戦時中に愛国浪曲への転換の音頭を取り、台湾や朝鮮半島、満州、中国本土に拠点をもつ親分衆らと連携し、軍の慰問興行を引き受けた。大陸を横断する浪曲師の一団を送り込んだのもヤクザだった。
そのほか、軍部からの依頼で慰安所の運営を任されたり、諜報機関である「特務機関」の配下となって、非合法活動に携わったりする者もいた。
とはいえ、ヤクザが戦場に向かったのは、ただ利権のためだけではないだろう。当時のヤクザは、社会の中で差別されたり虐げられてきたものが多かった。彼らにとって、「お国のために働く」ことは誇りを感じ、「働く意欲」や「信念」に目覚める場所だったはずだ。
●いの・けんじ/1933年滋賀県生まれ。新聞、雑誌の記者、編集者を経てジャーナリストとして活躍中。『やくざと日本人』(ちくま文庫)、『テキヤと社会主義』(筑摩書房刊)など著書多数。
※SAPIO2016年4月号