「比叡山が生き返ったのは、信長が焼いたお陰だとは何事か」
「これを書いた者は即刻比叡山から追放せよ」
「信長に焼かれなければ、日本史にとって学界の定説が覆るほどの資料が残っていたはず」
その声は様々だったが、小林氏に賛同する声は圧倒的に少なかった。信長を祭神とする建勲神社(京都市北区)の松原宏宮司も当時を振り返る。
「昔は『うちは信長に焼かれた』と嘆くお坊さんもいました。その中で、あのような発言をされたからにはご苦労もあったと思う」
逆風の中でも、小林氏は長年にわたり「恩人論」を唱え続けた。
〈若(も)し、信長の鉄槌がなかったにしても必ず仏の戒めを受けていたはずである。焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。物に酔い、権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた。山の規則を改め、修学に精進したのである(中略)信長は後世の僧達にとって間違いなく一大善智識の一人であったと思うべき〉(前述『比叡の心』より)
1991年、延暦寺執行に就任した小林氏(大僧正就任は1994年)は、翌年、「怨みの心は濯ぎ、信長とは和睦したい」と慰霊の法要を発願し、犠牲者と信長を合同で供養する前述の鎮魂塚が建立された。420年の恩讐を越えた「和解」が行なわれた瞬間だった。
以来、冒頭のように、毎年9月12日になると追善回向の法要がひっそりと営まれているのだ。
信長と延暦寺の「和解」を示す催しは法要だけではない。2011年5月、信長を主人公とした甲冑能が延暦寺で上演された。この能のテーマは「怨親平等」。
かつての信長の家臣が出家し、主君に縁の地を訪ね歩くうち、いつしか比叡山にたどり着く。そこで休んでいると、夜更けに信長の亡霊が現われ、焼き討ちの模様などを語り始める。僧兵の霊との立ち回りを交えながらも、やがて闘いの虚しさを覚え、供養を頼み消えていく、という内容だ。
まさに小林氏の思いと一致する内容の作品だった。比叡山延暦寺の副執行・水尾寂芳氏が続ける。
「そもそも比叡山延暦寺が信長を『仏敵』としていると思われていること自体、誤解されている部分がある。
確かに信長と比叡山は戦争をしており、敵同士でした。だが、伝教大師(最澄)の『怨みをもって怨みに報ゆれば怨み尽きず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽く』という言葉があるように、怨みをずっと持っていたら平和に繋がらない。怨親ともに仏縁であるということです」