また論功行賞の不公平を理由に独立した上原組も山口組を頼った。沖縄ヤクザはこれに対抗するため大同団結し、旭琉会を発足させた。
サトウキビの他、主要な産業のあまりなかった沖縄では、第三次産業が極端に発展した。当時、アルコールの消費量も日本一で、基地からは大量のヤミ煙草が持ち込まれた。パチンコやスロットの換金率もよく、本土では10秒回って止まるスロットが、沖縄では3秒でストップする。短時間で結果が分かり、より多く賭金を徴収できる。
モアイ(模合)という沖縄独自の互助システムは頼母子講の一種で、沖縄人を結びつける鎖の役割を果たす。飲み会とセットで絆を深めるのは効果的な仕組みだ。ここから所場代を取るヤクザはモアイもシノギにした。昭和52年に逮捕された旭琉会の中堅幹部は、モアイで21億8000万円を動かし、座料で3800万円の利益をあげていた。
盛り場の住人であるヤクザの利権は増大し続けた。本土復帰後も、風俗営業等取締法の本土並み適用は2度にわたって延期された。内地の暴力団はソープランドなどを経由し、覚醒剤汚染のなかった沖縄に、悪魔の白い粉を持ち込んだ。利権の増大に比例し、抗争は過激化する一方だった。
リンチによって亀頭をペンチで毟られた上原組の若い衆は、その報復に山原派のミンタミーを撃ち殺した。同行したもう一人のヒットマンはフィリピン人とのハーフで、佐木隆三の書いた『海燕ジョーの奇跡』のモデルだ。彼は2009年に海難事故で行方不明となったが、警察は死亡を装い、フィリピンで生活している可能性があるとみている。
ミンタミーを殺された山原派は、7名部隊で相手の組員3名を拉致し、地元であるやんばるの森に連れ込んで深さ1.4メートルの穴を掘らせた。相手の親分の居場所を問いただしても知らないと拒否されたため、穴の中で銃撃して埋めた。うち一人は土の中から這い出してきたので、腹や心臓をめった刺しにして、こめかみにトドメの銃弾を撃ち込んで埋め戻した。私がまっすぐやんばるに向かったのは、この現場を取材するためだ。
今なら確実に死刑判決となる凶行だが、無期懲役で結審した。犯人グループの一部は仮釈放されたが、実行犯たちのかなりが今も刑務所にいる。教唆で逮捕され、同じく無期懲役となった旭琉会のトップ仲本善忠は、コロナ禍の直前、仮釈放を間近に控えながら風邪をこじらせ亡くなった。90歳を超えていただろう。
沖縄の抗争は山口組が撤退してからも続いた。旭琉会から富永清理事長が絶縁となり、一派が沖縄旭琉会を結成、第五次抗争に突入したのである。沖縄県警はアジトに張り付き警戒を始めた。銃器を手にした組員は警官に向かって「イッター・カラサチニ・クルサイヤー」(お前から先に殺してやる)と叫んで発砲、その隙に手榴弾を投げ込み、警察と激しい銃撃戦を演じた。この事件で沖縄県警は、「発砲もやむなし」と通達を下した。
それでも抗争は鎮静化せず、台風の夜に襲撃し、警戒中の警官2人を射殺し、定時制に通う高校生が巻き添えで殺され、主婦も巻き添えで撃たれた。沖縄ヤクザは抗争を「いくさ」と呼ぶ。抗争期間中は「いくさ世」だ。決して大げさとは言えない。平成3(1992)年に暴対法が施行されたが、これは沖縄の抗争が激しすぎたからだ。