レニングラードのトラウマ
プーチンの父はその後、ドイツ軍がレニングラードを包囲した際にも参戦した。ドイツ軍は都市を封鎖することで陥落を狙った。900日に及ぶ兵糧攻めによって、多くの市民が餓死や病死した。当時1歳だったプーチンの兄も病死した。内務人民委員部の資料によると、飢えの余り人肉を食べる市民も出たほどだった。
プーチンの父は、レニングラード郊外のネフスキー・ピャタチョークと呼ばれる激戦地での戦闘にも参加し、片足が動かなくなるほどの重傷を負っている。この戦闘がきっかけとなり、1943年1月のドイツ軍による封鎖突破につながった。
ソ連は連合国として勝利したにもかかわらず、犠牲者は2700万人に上る。当時の人口の1割以上を失ったことになる。中でもレニングラード包囲戦の犠牲は甚大で、死者は100万人を超えた。
プーチンが生まれたのは終戦から7年後の1952年。だが、独ソ戦は、プーチンの人格形成に影響を与えたようだ。
「父親は戦場でかなりの重傷を負った。何とか生きて帰ってきたが、何か月も入院していた。母親は餓死する寸前だった。空腹の余り気を失って、他の死体と並べられたこともあった。母が生き延びたのは奇跡だと思う。私が生まれてきたことを神に感謝する」
プーチンは大戦中の両親の惨状について、こう振り返っている。
ロシアで勤務したことがある米政府関係者からプーチンにまつわるエピソードを聞いたことがある。筆者がワシントン特派員をしていた2018年のことだ。プーチンが、面会する要人らに語る父との思い出話があるという。
「父がレニングラード包囲戦で負傷して動けなくなっていた時、救助してくれた人がいたが、礼を言えないままだった。ある日偶然、『レニングラード市内のスーパーでその恩人と出会えた』と興奮して嬉しそうに家に帰ってきた父の姿を今でも鮮明に覚えている」
プーチンにとっては、父が負傷した戦いには、特別な思い入れがあるようだ。実際、プーチンはネフスキー・ピャタチョークに、戦争を記念する博物館を2018年につくっている。「だからこそ」と、前出の米政府関係者は強調する。
「レニングラード包囲戦を通じて、プーチンは戦争の悲惨さを身に染みて感じています。そのため、プーチンは全面戦争をできるだけ避け、犠牲が少ないやり方を選ぶ傾向にあると分析しています。2014年のウクライナのクリミア半島侵攻の際に激しい戦闘を避けて『ハイブリッド戦争【*】』を選択したのも、『レニングラードのトラウマ』があったからでしょう」
【*軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にした戦い方。国籍を隠した部隊を用いた作戦、サイバー攻撃による通信・重要インフラの妨害、インターネットやメディアを通じた偽情報の流布などがある】