子供たちを投げ出して離れるわけにいかない
1989年に生まれた千葉氏は、PLで“鬼”と呼ばれた伝説のコーチである清水孝悦氏の導きでPL学園に入学、硬式野球部に入部した。1学年上に前田健太(現ミネソタ・ツインズ)がおり、千葉氏はマエケンのキャッチボールの相手を務めたり、ブルペンで受けたりした。2年生になった2006年春のセンバツではベスト4まで進んだチームで背番号「16」をつけてベンチ入りも果たしている。
「恩師であり恩人にあたる清水さんや、現役当時の藤原弘介監督(現・佐久長聖監督)や諸麦健二コーチから、私はPLの野球を叩き込まれました。 PLの野球を背負う信念のようなものを、肌で感じていました。そして、それを後輩に伝えていくのが自分の使命だと思っていました。新入部員の募集停止も、現場である自分らには何も相談がなく、トップダウンで決まったことでした。学園の決定に反発することはできませんでしたね……。もし意見を言ってしまったら、(教団敷地内の一等地にある)硬式野球部のグラウンドを使うことすら禁止されかねなかった」
先輩からは「野球部の方向性が不透明であるのであれば辞めて次を考えればいいのではないか」と言われたこともある。だが、千葉氏はこう答えた。
「子供たちを投げ出して離れるわけにはいきません」
コーチであった千葉氏は公式戦のベンチには入ることができない。それゆえ、試合中の作戦は、白血病の発症によって1年時に留年を経験していた記録員の土井塁人が考えていた。
62期生の監督は、剣道部出身の川上祐一氏(校長ではない)が務めていた。校長監督だった頃には選手が作戦を考え、ベンチの控え部員がサインを出していた。ところが、監督がサインを出さないことでPL学園や教団が批判されることを回避するため、62期生の試合では土井から盗塁やバントなどの指示を伝えられた川上監督が不慣れなブロックサインでナインに作戦を伝えるという手段を取らざるを得なかった。
ベンチの混乱は最後まで続き、公式戦未勝利のまま最後の部員となる62期生12人(出場が可能な選手は土井を除いた11人)は2016年夏の大阪大会を迎えた。初戦となる東大阪大柏原戦の前日、練習中にアクシデントが起こる。シートバッティング中にセカンドの河野友哉とライトの正垣静玖が衝突し、河野は左大腿部骨折という大ケガを負う。
「河野の脚は明らかに状況が芳しくなく、すぐに翌日の出場は難しいだろうとわかりました。病院に連れて行くために、ハイエースに河野を乗せようとしたところ、河野は私のユニフォームを掴んで、『明日、出してください』と懇願した。PLにおいて、目上である先輩のユニフォームを掴むことなど考えられないわけですが、それをしてしまうぐらいに河野は追い詰められ、最後の試合に出場できない悔しさを露わにしていました。こういう事態を招いた責任の一端は私にもある。本当に彼らには申し訳ない気持ちでいっぱいでした」