村田の生産した缶詰は兵糧として日清戦争の勝利に大いに貢献したようだ。あたりまえの話だが、人間は完璧な存在では無い。神ならぬ人間にあらゆる分野に精通することは難しい。村田の甥は囲碁の大名人本因坊秀哉であり、村田自身も曲馬をこなすほどの馬術の達人だったのだが、残念ながら優秀な実業人が三流の政治家であっても不思議は無いということだ。
だが、あえて後知恵で言うなら天保十三年(1843)生まれの村田なら気がついて欲しいことがあった。それは明治維新以来、汚職という悪にもっともまみれていたのは俗に「薩長土肥」と呼ばれた人々のなかのどのグループであったか、ということだ。それはあきらかに長州人であろう。前原一誠のような例外もたしかにいたが、この大正時代まで元老として生き残っていた長州人井上馨は尾去沢銅山事件への関与が疑われている。
「明治維新後、尾去沢鉱山の経営は幕末に藩(盛岡藩。筆者註)から請け負っていた鍵屋村井茂兵衛が継続するが、村井は藩が借り入れた外債の返済責任を不当にも負わされ、1872年(明治5)鉱山を大蔵省に没収された。大蔵省は村井の負債額と同額で同山を政商岡田平蔵に払い下げた。この払下げには当時の大蔵大輔井上馨が深くかかわっているとして、司法卿の江藤新平が調査を開始したが、江藤が下野、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わった」(『世界大百科事典』平凡社刊 「尾去沢鉱山」の項目より一部抜粋。項目執筆者菅井益郎)のである。
思い出していただけただろうか? 大西郷こと西郷隆盛が西南戦争に踏み切ったのにも、こうした風潮への強い不満が背景にあったことは、『逆説の日本史 第二十二巻 明治維新編』に詳しく述べたところだ。ここで思い出していただきたいのは、「山城屋和助事件」である。
〈山城屋和助 やましろやわすけ 一八三六―七二
明治初年の御用商人、貿易商。天保七年(一八三六)周防国玖珂郡本郷村に生まれた。幼くして両親を失い萩の竜昌院の小僧になったが、のちに還俗して野村三千三を名乗った。文久三年(一八六三)長州藩奇兵隊に入隊、山県有朋の部下となって馬関戦争・戊辰戦争に参加。明治維新後は横浜に出て貿易商人となり、山城屋和助を名乗った。生糸の売込みと兵部省など各省御用達として輸入業務に携わり、山県有朋の庇護によって陸軍省公金を有利に流用し莫大な利益をあげた。明治四年(一八七一)フランスに洋行したが、たまたま生糸相場の暴落で大損害を被り、パリに滞在中の山城屋の豪遊振りが日本公使館から外務省に通報され、これが政府部内の対立もあって陸軍攻撃の材料に使われた。山県に呼び返されて帰国したが、六十四万九千円に達する貸下げ公金を返済できず五年十一月二十九日陸軍省内で割腹自殺した。三十七歳。この事件で山県は陸軍大輔の職を辞した。墓は横浜市西区元久保町の久保山墓地にある。〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊 項目執筆者岩崎宏之)
山県にとってじつに都合がよかったのは、山城屋和助が死の直前に関係書類を焼き捨ててしまったことである。このために、公金流用あるいは贈収賄の証拠が無くなった。それでも和助が生きていれば自白を得ることもできただろうが、なぜか陸軍省内で切腹してしまった。通常なら書類を焼いた場所で自殺するものだろう。なぜわざわざ陸軍省に来たのか? 周辺は山県の息のかかった連中、つまり真相が明るみに出ては困る人間ばかりなのである。
どう考えても山県一人だけが甘い蜜を吸っていたとは考えにくいし、奇兵隊の同志ならそのおこぼれに与った人間も相当いたのではないか。つまり、長州人のことである。ここからは想像だが、数人がかりで押さえつければ本人に無理やり「切腹」させることはできるし、「覚悟の自殺」ということにすれば検死なども綿密には行なわれない。
さらに山県いや長州人にとって都合のよかったことは、井上馨のケースと同じで司法卿江藤新平が失脚敗死したことだ。つまり、大正初期の日本の元老のうち二人までもが「塀の向こう側に落ちた」長州人だったということで、いわば彼らは汚職について知り尽くした「専門家」なのである。
(文中敬称略。1377回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年4月21日号