そう言えば、同じ時期に「ウサギ跳び」という運動もあり足腰の鍛錬に最良とされていたが、じつは身体を壊す可能性が高いそうで、現在推奨するスポーツ指導者はほとんどいない。だから私は、共著(『伝説の日本史 汚名返上「悪人」たちの真実』光文社刊)も出している和田秀樹医師など少数の例外はあるが、医師とくにスポーツ生理学者の言うことはあまり信用していないし、将来もこれに類すること、つまり何十年経ったら「あれはまったく無駄だった」「身体にかえって害があった」となるのではないかと思っている。
実際、医師では無いが「ジョギングの元祖」で「運動で寿命を大幅に延ばせる」と主張し、世界中でブームを巻き起こしたアメリカ人ジム・フィックスは、なんとジョギング中に心不全で死んでしまった(1984年没。享年52)。「寿命を延ばせる」どころの話では無い。
では、なぜ日本では「水を補給しない」ことが正しく、「ウサギ跳び」がよいとされたのか。いまに至るまで私は納得する説明を聞いたことが無いが、おそらくは前回紹介したスポーツライター玉木正之が指摘した、「『大阪朝日新聞』(1915年〈大正4〉)が社説で野球が優れて教育的なことを力説」したことと深く関連しているのだと思う。
大正初年の第一次世界大戦参戦から日本はいわゆる「軍国主義」の国家に少しずつシフトしていくのだが、国民を強靭な兵士にするには鍛錬がなによりも大切であり、それこそ「教育的」であるという観念が浸透していったのだろう。だからこそ、本来ならば健康を損なう炎天下で厳しい暑さをものともせず「戦う」のが「正しい」わけで、最終的には他ならぬ朝日新聞が「理想」とし喧伝した、「泥水すすり草を噛み」「十日も食べずに」戦う兵士の育成につなげられるということだ。
となれば、「炎天下で野球をすることは健康によくない」とか、「一人の投手に完投させることは教育的にも(他の選手の出番を奪うから)よろしくない」などという批判は無視すべきだ、ということにもなる。アメリカ人は野球を始めるとき、「プレイ・ボール」つまり「ボールで遊ぼう!」と叫ぶのだが、そんな姿勢は能天気でトンデモナイということにもなる。
しかし、この考え方はそれなりの意義はあったにせよ、大日本帝国時代の話である。それが滅んで七十九年もたった令和の時代に、まだ同じコンセプトで「夏の甲子園」を実行するつもりなら、まさに正気の沙汰では無い。主催団体の朝日新聞も高野連も軍国主義に対して絶対反対の立場を取っているはずだが、それならばなぜこの軍国主義に基づく伝統を守ろうとするのか。とくに昨今は真夏の暑さは異常なものとなり、医師も炎天下の運動は生命の危険があると警告しているのである。
それでも夏休みという期間を利用するからやむを得ないと言うのならば、エアーコンディショニングの整ったドーム球場に場所を移すか、せめてナイターで大会を実施すべきだろう。従来のやり方でやろうとするならば、それは一種の犯罪行為と言ってもいい。いや、本当に熱中症で死者が出たら殺人と言っても過言では無い。もう一度言うが、多くの医師が危険だと警告しているのである。大会開催までには、まだ半年の期間がある。一刻も早く改革案を提示するべきだと強く警告しておこう。