戦える相手は身内だけ
田岡の死後、山口組は3年間組長不在のままだったが、1984年7月、田岡フミ子の強い推薦も受け、山口組の四代目組長に竹中正久が就任した。
これに反対する山本広組長代行ら34人は大阪で記者会見を開いて竹中の組長就任は認めずと宣言した。数日後、山広派は25直系組長を集め一和会を結成した。ここに山一抗争の舞台は調った。
大阪戦争まで山口組は他団体を相手にして抗争を繰り返していたが、それ以降、すべて抗争は山口組自体の分裂や内紛を原因、背景にしている。山口組を相手取る他団体はすでになく、山口組と五分に戦えるのは分裂した元の仲間だけという時代が到来したともいえよう。
分裂時、山口組の構成員1万3346人、直系組長85人だったが、竹中派が5000人、直系組長47人だったのに対し、一和会は6000人、組長34人と真っ二つに割れたわけだ。
だが、半年後の1984年年末、竹中山口組は直系組長85人、構成員1万400人と復旧、逆に一和会は2800人と痩せ衰えた。
山広には焦燥感があったのだろう。1985年1月、山広が大阪・吹田市のマンションに潜ませた襲撃犯が組長・竹中正久、同行していた若頭・中山勝正、ボディガード役の3人を殺した。これにより山口組の一和会に対する報復は激化した。
竹中組は正久の後、実弟の竹中武が継いでいたが、山広に対する武の憎悪は深く、抗争でも竹中組は断トツの成果を挙げた。また1988年5月には神戸市東灘区の山広宅を襲撃、警官3人を銃撃して負傷させ、擲弾を暴発させるなど一和会への敵意の激しさを見せつけた。一和会副会長・加茂田重政を引退に追い込んだのも武だった。
武は五代目組長になった渡辺芳則の盃は飲めないとして山口組を脱退、五代目山口組からカチコミなどの攻撃を受けるが、抗争に殉じた真に「ヤクザらしいヤクザ」として多くの人に記憶されている。
(後編に続く)
【プロフィール】
溝口敦(みぞぐち・あつし)/1942年東京生まれ。ノンフィクションライター。早稲田大学政経学部卒業。『食肉の帝王』で2003年に講談社ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『暴力団』『喰うか喰われるか 私の山口組体験』など。
※週刊ポスト2024年3月29日号