いまもなお続く「稟議書社会」
だが、日本政府は最終的に中華民国を承認した。袁世凱の中国を認めたのである。いくらなんでも、相手は清国では無く中華民国なのだからドイツの膠州湾占領のような「火事場泥棒」はできないし、欧米列強と協調路線を取るならこの選択しか無かったからだろう。言うまでも無く、陸軍と違って海軍は昔から英米協調路線を堅持している。
ところが年が明けて一九一四年(大正3年)になると、突然海の向こうのドイツでシーメンス事件が摘発され、またたく間に日本に波及し「海軍内閣」である山本内閣はあっという間に崩壊に追い込まれた。前に詳しく述べたように、この疑獄事件はきわめて不思議な事件で、どうも大陰謀のにおいがする。そしてこの事件で最大の恩恵を受けたというか、もっとも喜んだのは山県有朋であったのは言うまでも無いだろう。「亡国内閣」を潰すことができたからだ。
ただ、次の首相を誰にするかは山県も悩んだ。ここで陸軍出身者を再び首相にすれば、世論の大反発を招く可能性がある。一番いいのは陸軍軍人では無いが、陸軍の方針にあまり逆らわない人間である。こうしたなか、井上馨や西園寺公望ら他の元老との妥協の産物として、当時は「過去の人」であった大隈重信が引っ張り出されることになった。
大隈重信は一貫して英米協調派であり、山県の大嫌いな政党政治を確立することを望んでいる人間であり山県から見ればそこが問題であったが、英米協調路線ということは帝国主義的に中国に進出していくことについては異論が無いということでもある。だから山県は、最終的には大隈内閣成立に同意した。大隈は大隈で日本に政党政治を確立する最後のチャンスだと思い、当時としてはいつ死んでもおかしくない年(満76歳)だったが、火中の栗を拾った。
そこに第一次世界大戦が勃発した。大隈内閣の成立のわずか四か月後である。元老・井上馨が「天祐」と叫んだのは、これで日本は日英同盟を口実に膠州湾を攻撃することができるからだ。南京事件をネタに中国に侵攻するなら「火事場泥棒」だが、同盟国イギリスのためにドイツの中国における拠点を叩くのは「正当な行為」である。しかも主戦場はヨーロッパだから、膠州湾の要衝青島の守りは手薄である。
大隈首相が「政党政治の後継者」と見込んで外相として入閣させた加藤高明も、そのことはじゅうぶんにわかっていた。いや、それどころか優秀な外交官でもあった加藤は当時日本の最大の外交案件だった「あと少しで租借期限が切れてしまう満蒙の利権を、どうやって延長するか」について、「ドイツを叩いて膠州湾を占領し、それを取引材料にして中国と利権延長について交渉すればよい」とかねがね考えていた。もっともこれは加藤独自のアイデアというわけでは無く、少しでも政治センスのある人間なら誰もが気がついていたことだ。だからこそ井上馨も「天祐」と叫んだのである。
問題は、その「取引」のやり方である。一番穏健な日中友好を重視したやり方は、日本が膠州湾を無償で中国に返還し相手の出方を待つ、というものである。そうして最大限の好意を示せば日本は「中国のために血を流した」ということになり、中国も利権延長について日本の要求を最大限に尊重するだろう、ということだ。これに対してもっとも過激というか領土的野心を剥き出しにしたやり方は、膠州湾を中国に返還せず、それを「人質」にしてさらなる利権を求めるという、まさに「やらずぶったくり」であった。