ライフ

伝説の98歳灘校教師が教科書の代わりに『銀の匙』選んだ理由

灘校伝説の国語教師・橋本武氏98歳

“西の名門”灘校にかつて「伝説の国語教師」がいた。橋本武、御年98歳。文庫本『銀の匙』(中勘助著)をゆっくりと読む。教科書は一切使わない。そんな前例なき授業は、生徒の学ぶ力を育み、私立高として初の「東大合格者数日本一」を達成するに至る。橋本氏の授業を受けた生徒は単に進学実績が向上しただけではない。芥川賞作家、東京大学総長、日弁連事務総長……“正解”なき実社会を逞しく生き抜く、数多の人材がそこから巣立っていった。橋本氏が語った。

* * *
50年間立ち続けた灘校の教壇を降りたのは昭和59年ですから、私が国語教師だったのは、もう27年以上前のことです。それだけの時間が経ってなお、当時生徒だった銀の匙の子どもたちと会うと私も懐かしいし、向こうもかつての先生だという気持ちで懐かしがってくれる。

今も変わらず、東京大学総長に向かって「濱田純一君」と言えるのも、現在の地位よりも、中高6年間持ち上がりの当時培われた、人間としての親しい気持ちがあるからだと思います。みんなが偉くなって、それで私が押し上げられたようなものです。おかげさまで生涯の終わり近くに、いろいろと取り上げていただくことになりました。

若い頃、私は貧乏でした。漢和辞典を作る手伝いなど、様々なアルバイトをしながら京都に暮らす友達と「あの本が面白い」「この作家がいい」とやりあうのが楽しみでした。そのなかで、『銀の匙』という作品を通して中勘助という作家に出会った。詩のように美しい表現に満ちた一冊に魅せられ、作品に傾倒するようになり、私の書く文章も影響を受けるようになったんです。

その後、灘校で国語を教えることが決まり、私は、生徒の頭に生涯残るテキストで授業をしたいと思いました。普通の授業をやっていたら、何も頭に残らない。それは、自分の学生時代を振り返ることでも明らかでした。

先生に対する親しみはあっても、授業そのものに対しての印象はゼロに近い。私は子どもたちのそれからの生活の糧になるようなテキストで授業がしたいと思ったんです。

当時から教育指導要領はありました。でも、それに従って決められた時間で授業をしたのでは、何も残らない。だったら、指導要領や教科書から作ろうと決めた。

題材には、中先生の銀の匙を選びました。主人公は10代の少年ですから、子どもたちに年齢が近い。主人公を自分と重ねて読むことができる。また、新聞連載されていた小説で、長さが授業にちょうどいい。章に題がついていないので、それを考えさせるのもいい。これしかないという思いでした。他の小説を検討したことはありません。これと決めたら、それに集中する性分なのです。

「銀の匙研究ノート」と名付けたテキストは、ガリ版刷りで作りました。学校から帰って、夜の2時、3時になることもありましたが、これが楽しいんです。銀の匙に出てくる言葉を拾い、その意味を一生懸命調べる。

東京に住んでいた中先生に、手紙で尋ねたこともあります。先生は、辞書で調べれば分かるようなことでも、丁寧に教えて下さいました。私に恥をかかせないよう配慮して下さったのでしょう。

文章だけでは表現できないときには、イラストも描きました。イラストを描くときは、先の丸い鉄筆を使います。文字を書くときには、先の尖った鉄筆です。今でもその頃の名残で紙に字を書くときも力がこもります。ただ、あの頃は1行に20分ほどをかけて読みやすい字を、曲がらずに書けていましたが、今はどうしても曲がってしまう(笑)。

撮影■渡辺利博

※週刊ポスト2011年6月24日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

今季から選手活動を休止することを発表したカーリング女子の本橋麻里(Xより)
《日本が変わってきてますね》ロコ・ソラーレ本橋麻里氏がSNSで参院選投票を促す理由 講演する機会が増えて…支持政党を「推し」と呼ぶ若者にも見解
NEWSポストセブン
白石隆浩死刑囚
《女性を家に連れ込むのが得意》座間9人殺害・白石死刑囚が明かしていた「金を奪って強引な性行為をしてから殺害」のスリル…あまりにも身勝手な主張【死刑執行】
NEWSポストセブン
失言後に記者会見を開いた自民党の鶴保庸介氏(時事通信フォト)
「運のいいことに…」「卒業証書チラ見せ」…失言や騒動で謝罪した政治家たちの実例に学ぶ“やっちゃいけない謝り方”
NEWSポストセブン
球種構成に明らかな変化が(時事通信フォト)
大谷翔平の前半戦の投球「直球が6割超」で見えた“最強の進化”、しかしメジャーでは“フォーシームが決め球”の選手はおらず、組み立てを試行錯誤している段階か
週刊ポスト
参議院選挙に向けてある動きが起こっている(時事通信フォト)
《“参政党ブーム”で割れる歌舞伎町》「俺は彼らに賭けますよ」(ホスト)vs.「トー横の希望と参政党は真逆の存在」(トー横キッズ)取材で見えた若者のリアルな政治意識とは
NEWSポストセブン
ベビーシッターに加えてチャイルドマインダーの資格も取得(横澤夏子公式インスタグラムより)
芸人・横澤夏子の「婚活」で学んだ“ママの人間関係構築術”「スーパー&パークを話のタネに」「LINE IDは減るもんじゃない」
NEWSポストセブン
LINEヤフー現役社員の木村絵里子さん
LINEヤフー現役社員がグラビア挑戦で美しいカラダを披露「上司や同僚も応援してくれています」
NEWSポストセブン
モンゴル滞在を終えて帰国された雅子さま(撮影/JMPA)
雅子さま、戦後80年の“かつてないほどの公務の連続”で体調は極限に近い状態か 夏の3度の静養に愛子さまが同行、スケジュールは美智子さまへの配慮も 
女性セブン
場所前には苦悩も明かしていた新横綱・大の里
新横綱・大の里、場所前に明かしていた苦悩と覚悟 苦手の名古屋場所は「唯一無二の横綱」への起点場所となるか
週刊ポスト
医療的ケア児の娘を殺害した母親の公判が行われた(左はイメージ/Getty、右は福岡地裁)
24時間介護が必要な「医療的ケア児の娘」を殺害…無理心中を計った母親の“心の線”を切った「夫の何気ない言葉」【判決・執行猶予付き懲役3年】
NEWSポストセブン
近況について語った渡邊渚さん(撮影/西條彰仁)
渡邊渚さんが綴る自身の「健康状態」の変化 PTSD発症から2年が経ち「生きることを選択できるようになってきた」
NEWSポストセブン
昨年12月23日、福島県喜多方市の山間部にある民家にクマが出現した(写真はイメージです)
《またもクレーム殺到》「クマを殺すな」「クマがいる土地に人間が住んでるんだ!」ヒグマ駆除後に北海道の役場に電話相次ぐ…猟友会は「ヒグマの肉食化が進んでいる」と警鐘
NEWSポストセブン