日本球界の頂点を極めたプロ野球選手・監督といえども、高校球児の時の記憶がその後の野球観を作り出している――。スポーツライター・永谷脩氏が、12球団監督たちの采配のルーツを、彼らの高校球児時代に探った。ここではヤクルト・小川監督のケースを紹介する。
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8月7日、10年ぶりに甲子園に出場した習志野(千葉)ナインを激励に訪れたヤクルト監督・小川淳司は、
「チームがなかなか浮上できない時、(補強に)動くべきか我慢すべきか考えてしまうけど、部員に恵まれない公立校と同じく、勝つためには、我慢して選手が育ってくるのを待たなければならない」
と、生え抜き選手を中心に編成してセ・リーグ首位を走るヤクルトと母校の姿を重ね合わせた。
エース・小川を擁する習志野は1975年の夏、県予選準決勝で、前年夏の全国覇者である強豪・銚子商を破りそのまま甲子園に出場した。当時の監督から常に、「お前の代わりはいない。少々のことは我慢しろ」といわれて投げ続けた。
初戦の旭川龍谷を粘りの投球で8-5と下すと、足利学園、磐城、広島商を完封。決勝では新居浜商に5-4の劇的なサヨナラ勝ちを収めた。
この大舞台でのサヨナラの記憶が、小川の野球観に今も強く根付いているのだろう。ヤクルトは今年すでに6度ものサヨナラ勝ち。選手の「代わりがいない」という母校と非常に似たチームで、選手を信頼し我慢を続けることが好結果を生んでいる。
※週刊ポスト2011年9月2日号