終戦記念日周辺になると先の大戦についてメディアなどで多数語られるようになるが、かかわった兵士個々人の体験というものはそれほど出てこない。戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの肉声を聞いてみよう。ここでは元海軍戦艦「霧島」主砲員の元帆足宗次氏(96)の証言を紹介する。
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〈帆足氏は大正5年生まれ。昭和8年5月佐世保海兵団入団。軽巡洋艦「川内」、重巡洋艦「那智」を経て、戦艦「霧島」乗り組み。主砲員としてハワイ作戦、インド洋作戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦などに参加。第三次ソロモン海戦で「霧島」沈没後、砲術学校教員を経て、19年10月空母「葛城」乗り組み。〉
昭和16年10月に戦艦「霧島」乗り組みを命ぜられた。当時海戦の主力であった憧れの戦艦に乗れると聞き、胸を躍らせたものだ。「霧島」は当時帝国海軍の戦艦ではもっとも旧式の「金剛」級四番艦であったが、第二次改装により最速の30ノットを誇っていた。
配置は後部三番主砲塔右射手。射撃指揮所から指示される方位盤射撃では、アナログの方位盤に映し出される赤い元針(方位角=大砲の向き)と追針(仰角=大砲の角度)を見て、目標に向け人力で15分(1度の4分の1)の精度で合わせなければ弾が出ない。物量にモノを言わせてとにかく撃ちまくる米軍とは大違いだった。射手の私が上下を、旋回手が左右を合わせてから引き金を引いて発射する。
「霧島」は同型艦「比叡」とともに真珠湾攻撃のハワイ作戦に参加した。しかし攻撃の主力は我ら戦艦ではなく空母・航空機となっていた。続くインド洋作戦、ミッドウェー作戦でも、戦艦の任務は空母護衛が主となっていた。こんなことは日米開戦まで前代未聞だったが、航空攻撃で撃ち漏らした敵艦があればいつでも撃滅する心づもりであった。また、対空戦闘などでまだまだ戦艦は活躍できるという気概は常に持っていた。
ミッドウェー敗戦後の昭和17年8月、米軍がガダルカナル島に上陸。11月14日「霧島」はガダルカナルの敵飛行場砲撃に向かい、ガダルカナルの手前で敵最新鋭戦艦「ワシントン」「サウス・ダコタ」の待ち伏せを受けた。40.6センチ主砲の彼らに対し、35.6センチ主砲の「霧島」が立ち向かったのだ。この時点で私の配置は三番主砲塔の旋回手となっていた。
こちらはレーダーがなくとも、日頃の猛訓練の賜物で「サウス・ダコタ」を撃破。しかし日本側に発見されていなかった「ワシントン」のレーダー射撃により、「霧島」は多数の命中弾を受け各部に火災が発生した。
「一番砲塔火薬庫火災、注水!」の伝令があり、続いて二番、そしてすぐ前の四番も火薬庫に注水。三番砲塔だけ6斉射したが、敵弾命中で電気系統、補機さらに(動力源の)水圧も止まり全砲塔が停止。3~4分間の出来事だった。加えて浸水したため舵機・機関が故障して航行不能となり、総員退去となった。
砲塔内から外へ出てみると凄惨な情況だった。暗夜だったが、左舷の機銃座で戦死者が引っかかり折り重なってぶら下がっているのが見えた。戦闘の恐怖のためか、甲板上で半狂乱になっている機関科の者もいた。三番砲塔に死傷者はいなかったが、他の配置には敵弾命中で首や手がない死体がたくさんあった。負けるということは考えたことがなかったが、敵の最新鋭戦艦の威力を思い知らされた。
四番砲塔の上に三脚の特設マストを設けて軍艦旗を掲げ、君が代をラッパで吹奏しながら旗を降ろした。その間微動だにせず敬礼していたが、「霧島」は刻々傾いていった。船にも魂があることを感じ、何が何だかわからぬまま号泣した。最後まで主砲を撃つことができて、「霧島」も私も幸せであったと思う。
復員後、民間企業に勤め、定年後は敵味方問わず供養するため、軍艦の模型を400隻近く造ってきた。それらを各軍艦の守護神社に奉納し、靖国神社にも100隻以上奉納している。
●取材・構成/久野潤(皇學館大学講師)
※SAPIO2013年9月号