太平洋戦争終了から今年で68年が過ぎた。戦争に行った者は年々減っている。戦地ではどのような光景が展開されたのか。今、彼らの証言を聞いてみる。。
証言者:藤原重人(88) 元陸軍第131師団独立歩兵第596大隊兵長
大正13年生まれ。昭和19年、陸軍第27師団支那駐屯歩兵第2連隊に入隊。中国の九江から重慶に向けて行軍。途中で作戦が頓挫したため第131師団歩兵部隊に転属。楽昌に転進し、行軍中に終戦を迎えた。
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昭和20年2月に始まった行軍はただただ厳しかった。楽昌まで2000km以上に及ぶ道中で補給はほとんどなく、食糧や水はすぐに底をついた。
最初こそ手持ちの食塩と現地住民の米を物々交換したが、それもなくなると食べ物を強奪し、若い男を人夫として徴発するしかなくなった。
自分も農家の生まれだ。食糧を取られ、働き手を奪われる辛さはわかる。でも生きるためにはしょうがない。勘弁してくれという気持ちだった。
食糧を持っていこうとすると年寄りや子供が、「シーサン(先生)」と呼びかけ、手を合わせて許しを請うてくる。それでも、奪うしかなかった。捕えた若者は苦力(クーリー)と呼ばれる人夫として連れていく。歩兵1人に2人のクーリーが付き、名前もわからないので、「ライオン」「桃太郎」といった呼び名をつけていた。
宿営地で休息しているとクーリーの家族が追いかけてきて、板切れに消し炭で何か書いたものを見せてくる。漢字だからだいたいの意味はわかる。「会わせてくれ」「返してくれ」という訴えだけど、一兵卒にはどうにもできないし、40㎏を超える荷物は人夫なしではとても運べない。行軍中は天秤棒の先に弾薬や食糧をぶら下げさせ、歩兵の手足としてこき使っていた。
戦況は悪化するばかりで、行く先は重慶から楽昌に変わった。水が悪くてよく下痢をし、戦闘もしていないのに栄養失調で初年兵がバタバタと死んでいく。行軍の道の脇には水路があり、そこに仲間を「水葬」してまた歩き続けた。ぐずぐずしていると中国のゲリラ軍の餌食になるからだ。
そして楽昌で終戦を知り、引き揚げ行軍になった。一緒にいたクーリーたちは終戦を知っても逃げ出さない。故郷に帰るには日本軍の退却についていくしかないからだ。彼らが故郷に戻った時のためにタバコや衣服などを渡し、ともに退却していく。
その途中に私はマラリアに罹り、倒れてしまった。部隊は敗残兵の集まり。戦友たちは倒れた自分に見向きもしなかった。
もう駄目かなあと感じながら、気を失って数時間が経った頃、誰かに頭から水をかけられて我に返った。ふと見ると、それは一緒に歩いてきたクーリー2人だった。鉄兜に近くの川から汲んだ水を入れて、熱で火照る私の体を冷やしてくれていたのだ。
部隊はとうに行き過ぎて誰もいないのに、2人は残って「シーサン、シーサン」と言いながら側にいてくれた。
戦後、クーリーたちは日本軍に協力していた裏切り者として、随分酷い目に遭わされたと聞いた。彼らはどうなったのだろうか。年齢は私とほぼ同じくらいだが、本名を聞いておかなかったことを今でも後悔している。
ひたすら行軍の日々で、銃弾を一発も撃つことなく私の戦争は終わった。
●取材・構成/竹村元一郎(ジャーナリスト)
※SAPIO2013年10月号