──日本人はなぜそんなに、外の鏡を気にするのでしょうか。
キャンベル:その理由については、今ひとつ私の中でも整理しきれないんですね。文学、あるいはファッション、デザイン、建築といった個々の分野では、外国からの評価によって自らのアイデンティティを確認する、ということはないんです。なのに、社会全体のことになると、外の鏡に映る姿が気になって仕方がないんですね。自信がないのでしょうか。
そろそろそういうことを気にしないぐらいの成熟を身につけていると思っていたのですが。礼讃本のタイトルだけを見ていると、言葉は悪いのですが、なんだか日本が一見、ポストコロニアルな(※)発展途上国に思えてしまいます。
(※)ここでは、植民地支配を脱した、といった意味。
実は、逆に明治の頃はあまり気にしていなかったのです。たとえば、明治初期に岩倉使節団が欧米を回り、アメリカを鉄道で横断したとき、どんな田舎の駅にも必ず新聞記者が取材に来ました。
ところが、随行した書記官が後にまとめた『特命全権大使米欧回覧実記』を読むと、自分たちがアメリカ人記者にどう見られ、どう書かれるかを気にして、言動を調整することがまったくなかったことがわかります。もう気持ちいいくらい気にしていない(笑)。
明治の後半にロンドンに留学した夏目漱石にしても、近代欧米文明の中で日本と日本人はどうあるべきかについては深く考えましたけれど、自分たちが欧米からどう見られているかに一喜一憂することはありませんでした。
気にするようになったのは、戦後の高度経済成長が終わった頃からではないでしょうか。日本がグローバル化する一方、従来の価値観でやっていけなくなり始めたときからです。ちょうどその頃、日本人論ブームも起こりました。
(インタビュー・文/鈴木洋史)
※SAPIO2015年4月号