さらにつけ加えるならば、京都市は2010年度から始めている「まちねこ活動支援事業」の継続推進についても、条例成立とセットで積極的に広報すべきだった。地域住民が適切に餌やりをし、手なずけた野良猫を捕獲して不妊去勢手術を行うまちねこ活動は全国各地で行われている。京都市内にもそうしたボランティア活動に参加する人はけっこういるようだ。そして、市は不妊去勢手術費を負担するなど、市民の活動を正式に支援している。そこをなぜもっと強く打ち出さないのか。日本トップレベルの観光地だというのに、PRが下手くそだ。
動物愛護法と照らし合わせても、野良猫の餌やり自体に問題はない。ただ、それこそ「マナー」は守るべきで、なぜなら、猫好きが「猫の多い町は暮らしやすい町」といった価値観を広めても、猫嫌いが「猫のうろつく町はだらしない」と感じる気持ちは変わらないからだ。
しょせんは好き嫌いの次元の話なのに、動物愛護には過剰な「正義」が伴いがちで、その「正義」を敵視する「正義」も強固に存在する。こういう言ったら「百害あって一利なしの問題と一緒にするな!」とお叱りを受けそうだが、動物愛護の問題はすぐ喧嘩になりやすい点で喫煙問題と似ている。
タバコに関しては、分煙ルールの下で愛煙家と嫌煙家が棲み分けながら互いを尊重しましょうよ、という「結論」がとっくに出ていると思うのだが、それでも「タバコもやめられない人はダメ人間だ」などと愛煙家を攻撃する嫌煙家はいなくならないし、そうした状況を「嫌煙ファシズムだ」とおおげさに騒ぎ立てる声もつねにある。
どちらの側も、極論を言う人は実のところ全体の中で少数派。けれども、小数派だからこそというか、もの言う際の声がでかい。彼らが勝手に言い争いをして完結してくれるなら構わないのだが、それによって「タバコ話は地雷になりかねない」といった認識が広がってしまい、世の中全体のギスギス感がそのぶん強まっているようなところもある。
野良猫問題の「結論」は、とにかく不妊去勢手術を積極的に行って野良猫の絶対数を減らすところにあるはずだ。うまくコトが進むほど「猫の少ない町になる」という猫好きにとってのジレンマがあるのだが、野良猫の交通事故死や行政による殺処分を減らすためにも、その方策をなにより優先すべきだと真面目な愛猫家たちは心得ている。
なのに、何かと言うと脊髄反射的に「人間の都合だけで動物を殺すな!」と大声でわめく少数派がいる。そういう人たちの言動を「動物愛誤」と嗤い、叩いてみせることで快感を得るような困った少数派もいる。
京都の条例めぐっても、この両極端がここぞと声を荒げた。そういう連中が食い散らかして場を荒らすようなニュースを安易に給餌してはいけない。