このためイスラエルは米国と連係する形でパレスティナサイドに申請を取り下げさせるべく強烈なプレッシャーをかけ続けてきたのだが、結局は空振りに終わってしまった。つまり事件当日の1月7日には、欧米や中東エリアではパレスティナのICC加盟申請のニュース一色になることが確実視されていたと言っていいだろう。
ところが、一連のテロ事件が発生したために、状況は一変する。前述の一件は完全に吹き飛び、国際世論はイスラム国に対する憎悪一色になった。この衝撃的な事件を受けネタニヤフ首相は、テロ事件後のパリ大行進への参加をすぐさま決めた。
「実はオランド大統領は、ネタニヤフ首相の参加を知ると、あわててパレスティナサイドと連絡を取り、アッバス議長のパリ大行進への参加を要請したのです。オランド大統領はそうやってバランスを取ることで、パリ大行進をイスラエルの政治的アピールの場にさせないよう腐心したのです」(前述の仏内務省関係者)
こうしたことからも明らかなように、あのパリ大行進の水面下では各国間で激しい駆け引きが行われていたのだ。
※SAPIO2015年5月号