橋下は以前にも増した調子でボルテージをあげ、十二月の衆院選に向けて対決モードに突入していった。凸凹コンビの相方である府知事の松井もまた、公明党の副代表である大阪十六区の北側一雄に挑むべく、戦闘準備に入った。
関係者の誰もが対決必至と緊張した。しかし、そうはならなかった。ドタキャンされた佐藤・松井会談からわずか二週間後の十一月二十三日、橋下、松井がそろって出馬を取りやめてしまう。この日の夜、大阪市内で開かれた国政政党維新の党の会合の席上、とつぜん橋下が切り出した。
「どうすれば、大阪がよくなるか考えた。それで今回は(衆院選に)出馬せず、(一五年四月の)統一地方選を戦おうという結論になりました」
そばに寄り添う府知事の松井も橋下に続いた。
「国政で勝負するより、地道にこつこつと来年の統一地方選で勝負したい。橋下市長とともに決意しました」
統一地方選のスケジュールなどは、はじめからわかり切っていたことだ。二人の言い訳を額面通りに受け取る関係者はまずいない。 橋下、松井の衆院選出馬に待ったをかけたのは誰か。その中心人物が菅義偉だったという。
橋下の出馬断念で、対抗馬の佐藤や北側が胸をなでおろしたのは言うまでもない。半面、これは自民党と官邸、さらには公明党と創価学会内部の権力構造の変化がもたらした結果といっていい。まずある公明党の元代議士秘書は、創価学会の力学について、こう指摘した。
「維新の橋下、松井下ろしを画策したのは、東京・信濃町の創価学会本部だといわれています。その学会に力を貸したのが、菅義偉官房長官。水面下の動きは大阪ではなく、東京でおこなわれた」
政権ナンバーツーの官房長官と公明・創価学会が、いかにして大阪都構想の問題にかかわってきたのか。
「創価学会の中で、維新の橋下、松井と公明の北側、佐藤の選挙戦を最も心配したのが、学会本部の秋谷栄之助前会長と八尋頼雄、谷川佳樹、佐藤浩という三人の副会長ラインでした。
そのなかで、新たな永田町の担当者になった佐藤副会長が、菅官房長官に泣きついたといわれています。維新の橋下たちと気脈を通じる官房長官に、このままでは、大阪三区と十六区が危ない、どうにかしてほしい、と頼み込んだと聞いています」
ある創価学会幹部は、そう明かした。
※SAPIO2015年7月号