西海岸エリアでのツアーを切り上げた猪木は、11月第1週からオレゴン、ワシントンの両州をまたぐパシフィック・ノースウェスト地区に転戦。
オレゴン州ポートランドにアパートを借り──異国アメリカで初めて年を越し──翌年、昭和40年5月まで6か月間、ここにじっくり腰を落ち着けた。
西には太平洋、東にはカスケード山脈が広がるオレゴンは、アメリカのなかでも“暮らしたい州”のトップランクに挙げられる土地だが、プロレス人気はそれほど高いところではない。
ツアー・コースはポートランド、ユージーン、セーラム、ワシントン州シアトル、タコマとその周辺。
老プロモーター、ドン・オーエンが1930年代から興行を手がけてきたテリトリーで、通常15人程度の所属レスラーが年間250試合を消化する自給自足型のローカル団体だった。
オレゴン時代の猪木は、トーキョー・トムでもリトル・トーキョーでもなく、本名のカンジ・イノキをリングネームとして名乗った。22歳だった猪木は、オレゴンの大自然の中でどんなことを考えながらツアー生活を送っていたのだろうか。
ポートランドから北へ向かう時は右側、シアトルから南下する時は左側に見える富士山とそっくりのセント・ヘレンズ山――1980年の大噴火で山の頂上が吹っ飛んで地形がガラリと変わった―の絶景が若かりし日の猪木の心を和ませていたのかもしれない。
パシフィック・ノースウェスト地区にはプロレス史に名を残すような、これといった強豪レスラーはいなかったが、当時の記録を調べてみると、カンジ・イノキの戦績は連戦連敗。これが武者修行の現実だった。
オレゴンでの半年間のツアーを終えた猪木は、ロサンゼルスを経由し、昭和40年6月、ミスター・モトのブッキングで次なる修行先のテキサスに向かった。
猪木がテキサスでのツアー活動をスタートしたころ、日本では馬場を主役とした“復活”インターナショナル選手権・争奪シリーズが始まっていた。
■斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ~とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年7月3日号