「4畳半の2間を3人で使っています。夫婦で1間を使っているんですが、ちゃぶ台を寄せて、テレビを寄せても、布団は1組敷くのがやっと。週末になると、同じいわき市内に避難している孫たちが5人泊まりにくるんですよ。ギュウギュウになって大変なんだ(笑い)。幼稚園や小学生の孫たちは、土に触れて遊んだり、虫取りをしたり、野山で遊んだという記憶もなく育ってしまうよね。犬もストレスがあるのか人をかじっちゃってね。仮設に移って、2~3週間経った頃かな。孫や私の弟など、何人かかじっちゃった。楢葉にいた頃にはそんなことなかったのに。ここ半年くらいで、ようやく落ち着きました」
犬もまた、楢葉に連れてくると実に生き生きとして、野山を2時間以上かけまわる。自然に囲まれた楢葉での暮らしと、都会のいわきでは生活がまるで違うという。
「楢葉では野菜やきのこを自分で作っていたからスーパーで買うという発想がなかったし、まさか米まで買ってくるようになるとは思わなかったよね…。私はいわきで小さな畑を借りて野菜を作ることで幸いストレス解消ができたけれど、家内は疲れが溜まって1か月ほど入院してしまった。
隣の家でくしゃみをする音が聞こえるくらい壁が薄いから、話すのも、テレビを見るのも気を使う。狭い部屋で縮こまって暮らしているせいで、腰まで痛めてしまって。苦労は言葉にならないね」
住民のほとんどが“消えた”町に、昔あった風景はない。
家にかかるカレンダーは「2011年3月」のまま。猪狩さんは、「家族が帰ってくるまでそのままにしておくよ」と話した。
町から許可が出て一時的に家へ戻れたのは、震災から約1年後だったという。
「ねずみの仕業でまぁ、障子はかじられているし、そこらへんにおしっこされて、においがすごかった。『これはもう住めねぇかなぁ』とも思ったけれど、『でも、故郷を捨てらんねぇなぁ』という気持ちもあるしね。できるだけやってみっかと、布団や畳を捨てたりして、ちょっとずつ家の整理をし始めたんです」
9月5日には楢葉町への避難指示が解除された。猪狩さんは4年以上の仮設生活を終えて、楢葉へ戻るつもりだ。
「昨年あたりから帰還のためにと、家や庭の草木を手入れしています。戻ってきたら不便もあります。お医者さんもいないし、大根1本作るにも、肥料を買いに1時間かけていわきまで行かなければならない。リフォームは来年の夏にならないとできないとも、いわれています。
避難生活が終わってからの生活の不安も、当然あります。それでも『ここへ住みたい!』という感情が、私にはあるんだよね。カーテンを閉めっぱなしの仮設暮らしは息が詰まったけれど、楢葉に帰ると、気持ちがカラッとしている。
震災の年に作った舞茸は放射能で食べられなくなって、悔しかった。またきのこや野菜を作りたいなというのが、今後の楽しみ。その気持ちがハリになって、元気に暮らせるんですよ」
明るく、社交的な猪狩さんは、仮設で町内の人と集まって交流を深めていた。将来的には楢葉でも、交流を続けていきたいと仲間と話している。
※女性セブン2015年9月17日号