ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、昭和42年4月9日に『ウルトラマン』最終回が放送された約1か月後に誕生した無敵の“BI砲”の活躍の軌跡と数少ない敗戦を追う。
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ジャイアント馬場とアントニオ猪木の“BI砲”が、本格的なタッグチームとして活動したのは、昭和42年5月から昭和46年12月までの4年7か月間だった。
プロレスファン、とくに少年ファンにとって“BI砲”は“正義の味方”で、無敵のコンビだったが、プロレスはスポーツであり、また一種の“大河ドラマ”でもあるから、“正義の味方”もたまには負ける。
馬場&猪木を下した外国人コンビは、ウィルバー・スナイダー&ダニー・ホッジ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、そして、ドリー・ファンクJr.&テリー・ファンクの3チームだった。
少年ファン──たとえば小学生だったぼく―は、プロレスを「ショーだ」「八百長だ」と簡単に結論づける大人の常識のようなものには激しく反発したが、それとはまた別の次元で、3本勝負の3本目、プロレス中継でいえば“8時45分あたり”に何かおもしろい事件が起きてくれることをいつも期待していた。
通称ブル・クラこと“生傷男”ブルーザー&“粉砕者”クラッシャー──アメリカのプロレス専門誌の表紙を飾るほどの超大物コンビ―と“BI砲”が対決したのは、昭和44年8月。
ブル・クラは、特撮モノ『ウルトラマン』の設定にたとえるとするならば“2大怪獣”で、“1話”では倒すことのできない強敵。
初戦では馬場&猪木が敗れてベルトを失い、馬場対ブルーザーのインター王座のタイトルマッチをはさみ、再戦で“BI砲”が王座奪回に成功するという“全3話”のオムニバスだった。
兄ドリー&弟テリーのザ・ファンクスとの一戦は、馬場&猪木の“BI砲”としては最後の試合(昭和46年12月7日=札幌・中島スポーツセンター)。
この前日、日本プロレス選手会は“会社乗っ取り”を画策したとして猪木の除名を決議。異様なムードのなかで決行されたタイトル戦は、BI砲がファンクスに完敗、猪木はリングから消されたのだった──。
■斎藤文彦(さいとう ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ――とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年9月18日号