林は、それまでも行っていた外国船への燃料や食料の供給のため、長崎のほか下田と箱館(のち函館)を開くことを新たに認めた。しかし、港における外国人の行動範囲を厳しく制限し、ついに交易は認めなかった。
同年3月31日(嘉永七年三月三日)、日米和親条約は調印された。「開国=貿易」と考えるなら、この時点で日本は開国していないと言える。
林が鎖国をどうしても守りたかったのは、日本が清(中国)の二の舞いになることを恐れたからだ。同じ鎖国政策をとっていた清は開国後、イギリスとのアヘン戦争に負け、その後遺症に苦しんでいた。
とはいえ、なぜ林はペリーの砲艦外交に屈することなく、互角以上に渡り合えたのか。
ペリーは、かつてメキシコで成功した砲艦外交を日本でも実践しようとした。しかし、準備期間は8か月と短く、ペリーが日本について知っていたのは『ロビンソン・クルーソー』と『ガリバー旅行記』の古い“物語”くらいだった。
一方の幕府は、長崎の出島から「オランダ風説書」というレポートを毎年得ていた。国際情勢が書かれたそのレポートには、ペリーの年齢から詳しい経歴まで書かれており、林はペリーが来ることも、その目的も事前に知っていた。
交渉以前の情報力で、すでに勝負はついていたのだ。
※SAPIO2015年12月号